甲:いかにすれば、光明を見ることができるのでしょうか。乙:直接、意根をもって観照することです。甲:階段が高すぎるので、踏み台を探して敷きたいのですが。
乙:見て分別せず、聞いて分別せず、行じて分別せず。迎えることもなく、内外もなし。これで光明を見られるか?甲:石や木も分別しないなら、あなた方との違いはどこにあるのか?
乙:分別はあるが心に留めず、用いて即ち離れる。これではいけないか?甲:いけない。無明を用い、無明を離れる。何の益があろうか。
乙:師匠がこう教えられたのを覚えています。「意根が作意すれば即ち止め、触れれば即ち止める。『受』せず、まして『想』『思』はない」これでは?甲:これは定を修めるもので、究竟ではない。
乙:諸法の虚妄を知れば、即ち実相無相を見るのか?甲:阿羅漢も諸法の虚妄を見るが、彼らは実相を見たか?
乙:彼らは知らない。大乗の人は知る。甲:知って何の役に立つ?
乙:私が万法を影幻の如く見れば、即ち投影機を見たことになる。甲:先に投影機を見るのか、それとも先に影を見るのか?
乙:先に影幻を見て、同時に投影機の作用と知る。甲:投影機を見ずして、どうしてその作用と分かる?推測か?
乙:万法は泡の如し。泡を見れば即ち大海を見る。甲:衆生は無始劫来、いつ泡を見なかったか。誰が大海を見たのか?
乙:衆生の心眼が開けず、探究を知らず、本末を転倒する。故に影のみを見て、影が即ち光の効果と知らない。当体に担えば、すべて如来なり。波全体が即ち水なり。甲:実に容易ではない。ただ勇往邁進することを願う!
乙:私は波の外に水を見に行かない。甲:波の外に何がある?波即ち水なり。誰がまだ波を見ているのか?
乙:波の外に法なし。衆生は波のみを見て、水と知らない。学仏者は波を見ても水と知らず、別に水を想像する。甲:生死は常に水の中にあるのに知らない。ただあまりに慣れ、あまりに密接しているからだ。
乙:荘子が言う「魚は水に相忘れ、人は道に相忘れる」。これでは?甲:よろしい。しかし生死は決せられない。
乙:狂心が歇まなければ、もし歇めたらよろしいか?甲:本頭を見出さずして、どうして狂いを歇ますのか?
乙:生生死死、私は来たことがない。潮の満ち干、海水に生滅なし。生死は幻法なり。衆生は常に涅槃に在りながら知らないのか?甲:その通り。
乙:私は涅槃の清浄の中で、自らの生死を見、衆生の生死変化を見る。甲:涅槃の中ではすべて涅槃であるべきなのに、なぜ見ると生死があるのか?
乙:涅槃の中に見るものなし。寂滅の道場なり。甲:生死を見ても、生死に迷わなければよいのか?
乙:見るものあれば即ち迷い。知見は即ち無明の本なり。甲:知らず見ざる者はどこにいるのか?
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