「任運」とは、識心が自然や因縁に随順し、自ずから覚知して動くことを指し、人為的な干渉によって阻まれることなく停滞することなく運行する状態をいいます。八つの識のうち、第八識と意根のみが任運に転ずる識心であり、六識はこれに該当しません。六識は意根の制限を受けるため、動作できない場合が多く、従って六識は任運に転ずる識ではありません。
「尋伺」とは、意識が単独で、あるいは五識を伴って行う探求・推敲・思惟・参究・研究などの行為を指し、意根の抱える疑問や問題を解決するための働きです。従って意識や六識の尋伺は直接意根の指示を受け、意根が東へ尋伺せよと命ずれば東へ、西へと命ずれば西へと向かい、事前に意識は提言を行い意根の参考と選択に供します。意根自体は五陰身の活動を単独で行えませんが、意根は従者を駆使して多くの事柄を代行させます。指導者が多忙で自ら具体的事務を行えない場合、配下に任務を委ねるのは当然の理であり、六識が意根の指令を遂行するのは責務として当然の帰結です。
第八識には尋伺の行為も心の働きも存在しません。第八識は無為で主体性のない心であり、あらゆる事象と関わりを持たないため、何かを尋伺する必要がないからです。意根は諸法の運行において無明と広範な攀縁により、一切の認知が極めて粗雑で、常に理解不能な事象に直面します。六識を頼りにしてもなお理解できない法が多く、これを解明するために尋伺心を起こして探究し、六識に探究任務を遂行させる必要が生じます。従って任運に転ずる意根こそが、六識の尋伺行為の発動者・監督者・指揮者であり、その結果は意根が受用するのです。
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