衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年08月14日    金曜日     第2 回の開示 合計2540回の開示

意根における我執とは何を指すのか

意根における我執は生まれつきのものであり、倶生我執と呼ばれます。主に五蘊十八界を我および我の所有物と執着し、実在の作用があると見做します。我を執り人を執り衆生を執り寿命を執り、六塵の境界を執り、六根の作用を執り、六識の知と見を執り、受想行識を執り、色身を執ります。その他のより微細な法への執着は法執と称され、法を実在と執し、我の所有とし、実際の作用があると見做します。もちろん多くの法を知らず理解していない段階では、執着を生じることはできません。修行の程度が深まるにつれ、理解する法が次第に増え微細になるに従い、心の中の法執は絶えず現れ強化され、不断の観行によって伏せ除かれ断ち切られる必要があります。

意識にも執着は存在しますが、意根ほど深刻ではなく、境界に接した際に生じる対境への執着です。六塵の境界に接触すればするほど執着は増大し重くなり、分別我執と呼ばれます。意識の分別我執は断続的で、時には存在し時には存在せず、意識が滅すれば執着も滅します。意識が理を明らかにする時、執着は降伏または消滅します。意識の境界への執取は意根の執着に比べ軽微で、それほど頑固ではなく、捨てようとすれば即座に捨てられ、一晩眠れば忘れることもあります。意根の執着は一生眠り続けても忘れられず、消去できず、極めて頑固です。時として逆らえば逆らうほど固執を強める場合があります。

——生如法師の開示
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