第二の月とは、目で最初の月を見た際、目をこすることにより、その中に幻のように現れるもう一つの月であり、最初の月と全く同じか、あるいは類似した姿をしている。最初の月は常に眼前に如如不動として存在するが、第二の月は手を動かせばそれに従って動き、現れる相は不確かで、生滅変化する。この特徴から、どちらが真実の月でどちらが妄念の月か、何が何に依存して存在し現れているかを判別できる。第二の月は第一の月から生じたものであり、第一の月がなければ第二の月をこしらえることはできず、またこする手も存在しない。第一の月は真実の心である如来蔵を喩え、第二の月は如来蔵が変化させた五蘊の世間法を喩え、目をこする手は意根を喩える。最初の時点では、意根と如来蔵のみが存在し、五蘊や世間は存在しなかった。意根の無明が妄動し、外に向かって攀縁し求めたため、如来蔵は意根と意根の無明に依り、宇宙の器世間を顕現し、続いて五蘊の身を変化させ、第二の月が現れた後、世間は複雑に入り組み、生滅変化が止むことなく、真実と虚偽が混在し、是非の区別がつかなくなった。
意根はこれらすべての法が自己であり、すべて自己の所有であると見做し、執着を止めないため、生死はこれによって絶えることなく、生命は六道を輪廻し、苦悩に苦しみ、最初の寂静を失った。意根は最初から心中に無明を抱え、朦朧とし混濁した状態で、寂静に安住することを肯んぜず、無明が外へ湧き出て、何かを明らかにしようとしたため、世界が生成され、もはや当初の朦朧たる状態に回帰できなくなった。
如来蔵が顕現したこれらの世間法は、すべて如来蔵に由来し、如来蔵の影であり、また第二の如来蔵でもある。これらの法を如来蔵であると言うこともできなければ、如来蔵でないと言うこともできず、是でもあり非でもあり、関係は微妙である。心中の無明の覆いがすべて除かれた時、これらの法の本質が如来蔵であるか否かを、自らが明瞭に理解するようになる。他人の是非を待つことなく、自らの心中に判断が定まる。もし目に翳がなければ、どうして灯火の中の円い影を見ることができようか。もし心に無明妄想がなければ、どうして目をこすり、妄りに五蘊世間の第二の月や月影、影月を現じ見ることができようか。
最初は、意根が寂静して動かず、境界が現れていないように見えたが、実は止水や澄んだ波のように平静ではなかった。実際には無明が常に暗に湧き起こり、その力が強まるにつれて表面の寂静を破り、宇宙の大千世界が広然と現れ、衆生の生死輪廻の因縁がついに具足し、衆生の生命体が生まれた。世間法はすべてどこから来たのか。すべて七大種子によって構成され、如来蔵に由来する。七大種子とは如来蔵の財宝であり、如来蔵は自らの財宝をもって一切の法を創造した。では一切の法とは結局何か。これは明らかであるべきである。
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