衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年08月19日    水曜日     第1 回の開示 合計2553回の開示

修行は知識の蓄積ではない、ましてや研究を行うことではない

仏法を学ぶことは知識の習得や研究ではなく、参究する能力を養い、実証を求めるべきです。単に理解を求めるだけでは不十分です。禅定が不足し、見道の因縁が整わない場合、仮に如来蔵を理詰めで導き出したとしても、その結果がほぼ真実に近いものであれば、さらに禅を参究する修行が困難となり、悟りを得たと錯覚する危険があります。因縁が整わない時期には、如来蔵に関する教えは暫く覆い隠され、後日の参究悟証に備えるべきです。

研究に没頭することはお勧めしません。法義は既に明らかであり、聡明な人が研究を重ねて近似の結論に至れば、かえって問題を生じます。菩薩道の条件が整った際に禅定の中で参究すべきです。世間の学問で優秀な成績を収めた者が、社会で有用な人材となる例がどれほどあるでしょうか。知識は生活を豊かにしますが、創造力を保証するものではありません。仏法の実証を求めるなら、世間の学問とは区別すべきです。さもなければ仏法学習は単なる知識の蓄積となり、解脱をもたらしません。真の解脱は実証によってのみ可能です。

釈尊の高弟である周利槃陀伽(しゅりはんだか)は四果の大阿羅漢であり、悟りを得る前は愚鈍とされ、悟後も説法はできませんでしたが、完全なる解脱を成就しました。我々は彼ほどの愚鈍さはないのですから、知識の理解と学習は適度に留めるべきです。

——生如法師の開示
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