唯識無境の意味は、一切の法はただ識のみであり、何らの境界と境界相も存在しないということです。これは唯識の種智に属する内容であり、一真法界の意味と同一です。ただし理が甚深で理解し難く、観察することも容易ではありません。道種智を有さない者においては、せいぜい粗浅な解釈しか得られません。
唯識無境の識は当然ながら妄心の第六・七識ではなく、第六・七識もまた境界相です。生滅を繰り返し自主性を持たないため、他の境界相を主導することは不可能です。一切の境界相を主導し得るのは第八識のみです。唯識の種智から見れば、一切の法は第八識によって幻化され執持されるものであり、全て第八識が七大種子を用いて生成したものです。そして不断に七大種子を変化させ、一切の法が業種に相応し、果報に相応するよう保持しています。
「一切の法はただ識のみ」とはどういう意味でしょうか。一切の法を金器に譬えるなら、金器の本質は全て黄金であり、黄金以外のものは存在しません。金器を見れば即ち黄金を見るのです。一切の法もまた同様に、全て第八識によって生成され執持されるもので、その本質は全て第八識です。一切の法を見る時は常に第八識を見るべきであり、それ以外のものは存在しません。
唯識無境の境は、法相とも呼ばれます。法相の範囲は極めて広大で、色法相、心法相、非色非心法相があります。般若心経に説かれるところによれば、眼耳鼻舌身意の六根、色声香味触法の六塵、眼識耳識鼻識舌識身識意識の六識、色受想行識の五蘊、四聖諦、十二因縁、菩薩六波羅蜜、四相、仏身、成仏の道、百法明門、千法明門、億法明門、無明、無明尽などがこれに当たります。これらの法相は全て如来蔵第八識の空相であり、実質的な法相境界相を持ちません。
一切の法上の法相と境界相は全て第八識が生成した相であるため、境界は存在せず、全て第八識です。この観行の智慧は甚深鋭利であり、六・七転識が智に転じた後の定慧を具足した者でなければ現前観察できません。そうでない場合、無明の覆いが重く定力が浅薄であるため観察智慧が生じず、一切の法の実質を現量観察できず、境界相に堕して真金を見失います。定慧が不足し、定において初禅定を得ず、慧において識を転じて智を得ていない場合、全ての観察は想像と推理に堕するのです。
定慧が深細である者ほど、一切の法を見る時に見る境界相が少なく浅くなり、現量観察の智慧は上地に至るほど深く究竟します。見るものが真実に近づき、仏地に至って完全に一真法界を見る時、余法は何も見えなくなります。人が眼中に境界相を見る限り、それは無明です。見る境界相が多ければ多いほど無明は重く、逆に境界相を見ることが少なければ少ないほど智慧は深く鋭利となるのです。
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