衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2020年08月29日    土曜日     第1開示 合計2576開示

誰が衆生の身分を代表するのか

無数の生死輪廻の中で、何が私たちの身分を表しているのでしょうか?凡夫から仏陀への修行の過程において、何が私たちの身分を表しているのでしょうか?

例えば、成仏した時、何が仏陀の身分を表すのでしょうか?八地、九地、等覚菩薩になった時、何がそのような大菩薩の身分を表すのでしょうか?初地以上の菩薩になった時、何が初地以上の菩薩の身分を表すのでしょうか?明心して悟りを開いた後、何が明心菩薩の身分を表すのでしょうか?初果から四果を証得した時、何が初果・二果の賢者の身分を表すのでしょうか?何が三果・四果の聖者の身分を表すのでしょうか?辟支仏果を証得した後、何が辟支仏の身分を表すのでしょうか?凡夫の位において、何が地獄の衆生の身分を表すのでしょうか?何が餓鬼の衆生の身分を表すのでしょうか?何が畜生の身分を表すのでしょうか?何が阿修羅の身分を表すのでしょうか?何が異なる天界の天人の身分を表すのでしょうか?何が異なる人間の身分を表すのでしょうか?

衆生が毎回死亡する時、六識は滅し、五蘊の身は滅します。ただ意根と第八識だけが存在し続け、共に後世へと赴き、後世の五蘊の身を生み出します。生生世世、このようであるならば、ただ意根と第八識だけが衆生の身分を代表し得ます。しかし、各衆生の第八識は全て同じであり、全て同じ徳相で、少しの差もありません。それならば、第八識は衆生の身分を代表することはできません。そうでなければ、全ての衆生の身分は同じになり、何の区別もなくなってしまうからです。ですから、ただ意根だけが衆生の身分を代表するのです。

意根がどのような徳相であるかによって、どのような衆生であるかが決まります。仏の徳相であれば、仏世尊であり、仏陀を代表するのは意根が成就した報身仏であり、衆生の果報身とは明らかに区別されます。意根が等覚菩薩の徳相であれば、衆生は等覚菩薩です。意根が八地菩薩の徳相であれば、衆生は八地菩薩です。意根が初地菩薩の徳相であれば、初歩的に転識成智しており、衆生は初地菩薩です。

意根が明心して証悟しても、転識成智していなければ、衆生は三賢位の菩薩です。意根がただ果を証得するだけで、明心していなければ、小乗の聖賢です。意根が辟支仏果を証得し、辟支仏の徳相を具えていれば、衆生は辟支仏です。

意根の心性が地獄の衆生のような残酷で激しい怒り(嗔恚)であれば、衆生は地獄の衆生です。意根が非常に吝嗇で貪欲であれば、衆生は餓鬼です。意根が非常に愚かで教えられなければ、衆生は畜生です。意根の徳相が非常に怒りっぽく戦いを好むが、福徳があれば、衆生は阿修羅です。意根の徳相に善と悪があり、時には善で時には悪であれば、衆生は人間です。意根の徳相が善が悪より大きければ、衆生は欲界の天人です。意根の徳相が善であるだけでなく、禅定でもあれば、衆生は色界と無色界の天人です。

人身は鍵であり、後世が上か下かを決定します。もし学仏修行しても意根にまで修めず、意根の徳相を高め変えなければ、臨終に六識が滅した時、意根は現前の徳相によって後世の身分を決定し、如来蔵と共に意根の徳相に相応しい胎内に赴きます。因果の法則はまさにこの通りです。数え切れない人々の修行は、蜻蜓が水を点つけるようなもので、少し試してすぐに止めてしまい、意根の心に入らず、仏法を意根の心に落とし込まなければ、意根に無明を帯びたまま無明の胎蔵に投胎させ続け、無明の苦しみの衆生を生み出すことになります。私は口を酸っぱくして何度も何度も意根について説き、意根の重要性を説いてきました。それなのに愚かな衆生は意根を認めず、証果も意根に証させず、明心も意根に明らめさせません。それならば、後世は証果も明心もしていない意根に投胎させ続けることになりますが、その身分は決して証果や明心の身分ではありません。その時に後悔してももう遅いのです。

——生如法師の開示
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