一説によれば、煩悩即菩提である。煩悩は一方では貪・瞋・痴や殺人放火などの悪法を指し、他方では飲食排泄などの日常的瑣事を指す。菩提とは如来蔵を指す。一切の法は如来蔵によって顕現され保持されており、外相分も同様である。すなわち外相分の生住異滅は全て如来蔵によって実現され、内相分も当然如来蔵によって顕現され保持されている。山河大地の一切の変化は第八識如来蔵の所為であり、一切法の生住異滅は全て第八識如来蔵の所為である。
六識が直接外相分を変えることは決してできない。六識には種子がなく外相分と相応せず、また六識は後から生じる法であるため、まず内相分が存在しなければ六識が生じ得ないからだ。したがって六識が直接外相分を変えることは不可能である。如来蔵には四大種子、六大種子が存在するため、一切の法は如来蔵が決定する。これらの問題を参究する方向性は既に明らかである。六識が接触できるのは内相分のみで外相分には触れ得ないならば、なぜ六識の行為造作が外相分の変化に関与し得るのか。ここに大いなる秘密が存在する。
私が手で机から本を取り上げる時、手が触れるのは本の内相分であり、取り上げるのは内相分の本である。しかし外相分の本は机の上になくなるため、他者は見ることも触れることもできなくなる。内相分と外相分は究竟どのような関係にあるのか。先に存在するのは内相分か、それとも外相分か。もちろん外相分が先である。変化するのは外相分が先か、内相分が先か。もちろん外相分が先に変化する。内相分はどこから来るのか。もちろん第八識如来蔵が外相分に基づいて顕現したものである。よって一切の法の変化は必ず外相分が先に変化し、変化した外相分が浮塵根を経て浄色根に伝達され、内相分が形成される。
しかし私の手が外相分の本に触れ得ないなら、どうして外相分の本を先に変化させ、それによって内相分の本を変化させることができるのか。例えば六識が人を殺す業を造作する場合、六識が接触できるのは人の内相分のみで外相分には触れ得ないなら、どうして六識は人の外相分を滅ぼすことができるのか。しかも人の外相分が先に滅び壊れ、その後で人の内相分が滅び壊れる。内相分は外相分に由来し外相分に依って顕現されるため、必ず外相分が先に変化し、その後内相分が追随して変化する。ここに在る大秘密は縁ある者が細心に参究すべきものであり、これ以上筆を重ねることは適わない。
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