問:内相分は外相分から顕現したものですが、外相分は結局あるのでしょうか、ないのでしょうか。例えばある料理が非常に塩辛い場合、各人の内相分における味覚は異なりますが、結局その料理に味はあるのでしょうか、ないのでしょうか。
答:味塵の外相分は同一です。各人が業力異なるため、感じる味が異なります。業力が異なれば、舌根を通じて伝わる味塵の四大微粒子に変異が生じ、内相分が変化するため、識心が分別した後の感覚が異なるのです。例えば眼病のある者は灯光中の円影を見ることができますが、他人には見えません。これは眼病という業障によるものです。衆生の福徳と業障が異なるため、感じる味塵も異なります。例えば仏には無上の福徳があり、あらゆる食物が仏の口の中で最上の美味となりますが、凡夫衆生の口の中ではそうではありません。
味塵は色法であり、四大種子によって構成され、外相分と内相分の二種に分かれます。したがって外相分の鹹淡甘辛などの味塵が存在しますが、舌識と意識は接触できず、了別することもできません。外相分の味塵には如来蔵のみが接触できますが、如来蔵には口がないため、我々に伝えることができないのです。
我々が味塵を味わう時、自らの仏性が働いています。したがって食物を味わう時に仏性の妙用を見ることができ、その時は味塵を実在と見做さず、如幻観を証得します。福徳を修めず、禅定も修めないで、専ら慧力に心を用いる者は、容易に仏法を実証できず、往々にして大きな損を被りながら自覚しません。福徳と定力を修めない者が専ら慧を修めると、より多くの代償を払い、より多くの時間と精力を費やします。むしろ福徳を厚く修め、禅定を固く修めた後、少し仏法を思惟すれば証得できるのです。損をしたくないと思い続ける者は、結局損を被ります。これが智慧なき選択の結果です。
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