我見を断ずる時、三結中の疑結を断除するには、意識の疑いを断つだけで意根の疑いを断たずにいることは許されません。もし意根が我見への疑いを帯びたまま中有に至れば、三悪道を免れず、疑結に縛られたまま三悪道より解脱することは叶いません。ただ意根の疑いを解き放ってこそ無明は破れ、意根の全ての疑いを解き放つことにより無明が断尽し、仏と成るのです。いかなる仏も意根に疑問の結び目を携えたまま成仏した例はなく、いかなる菩薩も疑結を抱えたまま無始の無明を破る大乗菩薩となった例はなく、まして解脱道の聖人においては、疑結を留めたまま三界の生死の苦より解脱した者は一人も存在しません。
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