それでは催眠の原理について、昨日の三つの事例をもとに説明いたします。最初の事例では、催眠師が被催眠者に睡眠を指令すると、数名の被催眠者は即座に互いにもたれかかり眠りに落ちました。その後、催眠師が覚醒を命じると、彼らは深い眠りから目覚めました。目覚めた後、自らが睡眠中に互いにもたれかかっていた状況を全く認識しておりませんでした。
このような現象が生じる理由は、通常我々が覚醒している際、意識と意根が相互に信頼し合い、依存し合い、指導し合っていることにあります。普段意根は意識の指導や制御に従い、意識の命令を受け、意識の影響を受けています。しかしこの時、意根は自らの意識ではなく催眠師の影響を受けるのです。催眠師は被催眠者の意識の役割を代行し、意根は催眠師の全ての指令を完全に信受し、何を言われても疑うことなく、100%服従します。これは自らの意識に対する信受を超え、催眠師の指令が自己の意識の指令を凌駕している状態です。
従いまして、催眠師が何かを命じれば、被催眠者の意根はそれを即座に信じ、信じた瞬間に実行可能となります。なぜ信じるだけで実現できるのか。それは意根が主体をなす識(作主識)であり、強い力を有しているためです。意根が何かを成そうと決意し、それを阻害する要因がなければ、即座に実現可能となります。催眠師が睡眠を命じる際、意識が意根を制御・指導しないため、意根は直ちに睡眠を決断し、一切の縁を捨て去ります。意識の関与がないため、瞬時に眠りに就くのです。この睡眠状態には五識も意識も存在しないため、互いにもたれかかった状況を自らの意識は認識できず、覚醒後もやはり認識できません。睡眠中に意識が滅しているため、自らの睡眠状態を把握できないのです。
通常の睡眠に比べ、催眠下では極めて迅速に眠りに就けるのは何故でしょうか。通常の睡眠準備にはまず五識の了別を滅し、次に意識の了別と心念を滅する必要がありますが、意識を滅するには多少の困難を伴います。一方催眠下では、意識が直接作用しなくなるため、瞬時に眠りに就けるのです。
この原理から明らかなように、意根が何かを信受する場合、それは普通の信ではなく、極めて深く揺るぎない確信です。自らの思量を一切挟まず、是非善悪を考慮せず、意識の制御を受けず、六塵を弁別する能力も弱いため、催眠師の言葉をそのまま受け入れ、命じられたことを即座に実行します。これが意根の智慧が劣っている点です。意識が存在すれば、思考し是非を弁別し、適切な措置を講じて意根を制御できます。しかし意根に六識や意識の補佐がなく、自らの弁別力が不十分なため、催眠師に睡眠を命じられれば、何の思量もなく即座に眠りに就けるのです。
我々が深い禅定に入った際、意根は六塵の境界を観じ、自らの色身を発見し、一切の境界が従来とは異なることを覚ります。深い禅定中、意根の心は集中し智慧が開花するため、色身が自らで制御可能であることを悟るのです。境界の虚妄性を覚り、もはや境界を真実と見做さなくなります。深禅定では意識の制御がなく、意根が何を成そうと決意すれば、即座に実現可能となり、神通力を発動すれば妙用が現れます。
例えば第四禅定において意根が「虚空に飛翔せん」と念じる時、六識の干渉がなく、意識も妨げず、虚空の概念も色身の障碍も存在しないため、直ちに虚空に飛翔し山を越え嶺を超えることが可能です。意根が「遠方や天上の音声を聴かん」と念じれば、意識の干渉がないため、極めて遠方の音声を即座に聴取できます。意識が「それは不可能だ」と干渉すれば、意根も真に不可能と受け止め、実現できなくなるのです。
意識の干渉がなければ、意根が何かを念じるや即座に実行に移し、背後にある本源の力がこれを成就させます。こうして無量の神通が開発されるのです。意識が干渉する場合、意識は自らの生活経験や現実の習気に基づき「これはできない」「あれはできない」と影響を与えます。意識は真実相を見たことがなく、全ての思考が誤っているため、意根への干渉は極めて大きいのです。意識の干渉がなければ、誰もが神通の潜在能力を開発できます。
現在、催眠師は意識の役割を代行し、催眠師が説くことを意根が信受し、信じたことを即座に実現します。神通が発現する原理も、この催眠の原理と同一であると言えましょう。
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