鬼の特徴は貪欲と吝嗇であり、故に貪欲な心を持つ者は命終えると必ず餓鬼道に生まれ変わります。何を貪ろうとも関係ありません。餓鬼と悪鬼は共に鬼道の衆生に属しますが、餓鬼の心性は極めて貪欲で吝嗇であるため、一切を失い極度の貧困に陥り、飲食を得ることができず、水に近づけば水が火に変わり、大いに苦悩します。悪鬼の心性は邪悪で、常に人を含む他衆生を害します。鬼道の衆生は一般的に単に「鬼」と呼ばれ、餓鬼や悪鬼とは区別されます。衆生の貪りは金銭や財物に限らず、五陰世間におけるあらゆる法への執着、世間一般で正常とされる身口意の行いも全て貪りに含まれ、鬼道に堕ちる因となります。貪りの範囲は極めて広大です。
私の隣家に老婆がおり、生前は庭で三人の老人と常に麻雀を打っていました。三人の老人が相次いで亡くなり、最後に老婆も亡くなりました。鬼道に生まれた後、娘の夢枕に立ち麻雀を所望したため、娘が紙の麻雀を焼いて供えると、その後夢で「亡くなった三人の老人と今も麻雀を打っている」と告げました。彼らは比較的福徳ある鬼で、生前大悪を造らず遊びを貪り、死後も鬼道で遊び続けています。生前音楽や美術に携わった者が鬼道に堕ち、仏法を信じて信者の体に憑依し寺院で功徳を積む事例にも遭遇しました。芸術家たちも芸術への執着と愛着を貪り、死後鬼道に堕ちます。琴棋書画等を愛好する行為も全て貪りに属します。過去の文人墨客や詩人作家の多くも死後鬼道に堕ち、貪りの習気を持っています。何かを愛好すれば必ずそれに縛られ、解脱を得られません。
更に深刻な貪りとして、色欲や愛情への執着があり、死後は多情鬼や色鬼となります。多くの人は情愛を当然のものと考え、他者への情愛を誇り、むしろ賛美します。しかし情こそ最も深刻な貪りであり、生死輪廻の主因です。釈尊は『楞厳経』で「情重ければ必ず三悪道に堕ち、九情一想は水輪に沈み地獄に至り、七情三想は鬼道に生まれ、情想均等は人間界に生まれ、情少なく想多ければ天界に生まれる」と説かれました。想は理性を表し軽やかな心は善道へ昇華し、情は重濁の心を形成し必ず三悪道へ堕します。
情愛は人間の法律や道徳の観点から正当とされようとも、因果の観点では不合理で存在すべきでありません。情愛は貪欲であり、貪りあれば水の如く必ず下流へ向かいます。多くの人は情愛が芽生えると詩画で感情を発散し、これを美徳と誤解します。実際には多情は不善であり、自他を害して共に三途に堕し、輪廻の苦しみを招きます。多くの苦受は情執によって感招され、情無くして執着無ければ苦受も生じません。
正当な情愛でさえ悪報苦報を招くのですから、不適切な情愛、他者を害する情愛、不道徳な情愛は更に甚大な悪報を招きます。正当とは法律と道徳が許容する範囲を指し、反するものは不適切です。仏弟子は自心を厳しく管理し、貪愛と情執を調伏すべきです。貪愛は善法でなく煩悩であり、悪法です。多くの人が「縁を結べば来世で救える」と誤解し、異性と頻繁に交流し不適切な情愛を放置する事例がありますが、実際には一劫の間にも他者を救済する力は得られず、情愛の縛りで共に悪道に堕ち長劫の苦しみを受けるのです。
衆生を救う心は善ですが、正理と仏法を弁えねば善も悪に転じ、衆生を救えず反って衆生に救われる結果となります。これを口実とする者は直ちに心を改めるべきです。因果は誰をも容赦しません。総じて娑婆世界では、あらゆる法や境界に貪愛を生じ、愛着し捨てられない心は全て貪りに属し、鬼道に堕して業果を償うことになります。因果は虚しからず。
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