達磨大師が禅の修行法を教え示されました。「外に諸縁を息め、内に心喘ぎ無く、心をして墙壁の如くならしめば、道に入るべし」と。前三句は条件と方法、後者は目標と結果であり、前三者の充分かつ必要な条件がなければ、後者の結果は得られません。修行中に達磨大師の説かれた入道の条件と一致せず、三つの条件から大きく外れている場合は、必ず意識的情思意解が混入しており、悟りは真実ならず、見道は偏り、霧の中に花を見るが如く朦朧として真智が現前せず、道業は停滞します。外に諸縁を息めるとは、工夫して参禅する際、心外の六塵境界の縁を全て遮断し、心が六塵の相に執着せず、六塵の境界に転じられず、山を見て山に非ず、水を見て水に非ず、山水の相を分別せず、心を山水の上に住まわせず、世俗の有為法に住まわせないことです。内に心喘ぎ無しとは、内面に種々の貪求や煩悩を抱かず、種々の思想や念頭を起こさず、いかなる思想的感情も持たないことです。
心を墙壁の如くならしむとは、参禅の過程において心を平穏厳密に修め、密不通風の墙壁の如くにし、外塵入らず、八風侵さず、内面の雑念起こらず、煩悩無く、定力山の如く、一切の境界摧伏不可ならしめることです。
参究の過程に言語・文字・音声無きは、参禅の後続段階である「伺」に相当します。猫が鼠を待つが如く、静かに機縁を伺い、時機を窺って行動し、参究の目標が現れるのを待ち、それを捕らえれば戦功を享受できます。達磨大師の説かれるこの工夫の境界は、純粋に一念不生の禅定境界ではなく、意識において確かに念頭無きも、意根は深く思量し、疑情最も濃厚、思量最も重く、念念に疑い、念念に弛緩無く、念念に道あり、世俗の念無く、参究の目標を執拗に追及し、無始劫以来の生死の本源を究明せんとする一心です。
工夫この域に達して初めて道を証入でき、これを意根の親証と称します。此れ以降、後得智・差別智が漸次生起し、第八識が五蘊身中に運行する様を現前観察でき、第八識の無為性と有為性を現前観察できます。第七識は第八識の無為心性も有為心性も学べます。意識の解に依る場合は、第八識の無為性を想像するのみで、第八識の有為性を観察できず、第八識が具体的に如何に無為であるかを現前観察できず、観察智は現れません。
凡そ甚深禅定を以て入道する者は、皆意根自ら参究し、自ら証得した故に親証と称します。然らずんば全て意識の証得であり、親証と説くは蛇足です。入道可能な禅定には未到地定と初禅定があり、特に具足した未到地定が必要です。未到地定が具足せざれば悟道浅く、初禅定有れば更に良く、悟りは深く透徹します。
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