衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年09月08日    火曜日     第1 回の開示 合計2603回の開示

参禅と論理的推論の違い

参禅はかつて禅宗の祖師たちが提唱した明心証悟の修行法であり、この方法によって本心自性の第八識を証得することができます。参禅には深甚な禅定が求められ、朝に夕に絶え間なく修行を続け、昼夜を分かたず参究求道に心を注ぎ、機縁が熟した時に触縁遇境して自ら悟りを開くか、あるいは禅師の機鋒の下で悟道します。初期の修行が未熟な段階では「尋」と呼ばれ、意識が比較的努力し、思考が多く表れますが、禅定が深まり修行が熟達するに従い「伺」の段階に入り、意識の働きが止み、意根の思量作用が顕現します。これにより昼夜覚睡を問わず修行が一体化し、疑情が極限に達して心が極めて鋭敏となり、相応の境界に遇うことで証悟を得て三昧を成就します。禅定が浅い場合、修行は深まらず証悟の三昧定慧境界を発起することはありません。

論理的推論は完全に意識心に属し、修行の深浅に関わらず、中学生でも学問上の疑問を解決でき、あらゆる学術研究者も普遍的に用います。仮に禅定があっても浅いものです。論理的思考は参禅入門前の段階に相当し、入門後は厳に禁じられます。禅宗ではこれを「意下の卜度」「情思意解」「鬼家活計」と批判し、祖師たちは意識を離れ文字言語を超えた参究を求め、便宜的な推論を厳しく戒めております。

言語文字を伴う意識活動は禅定が極めて浅いか存在しない状態を示します。深い禅定では意識の粗い思考活動が停止し、微細な思考さえ断たれますが、意根の思量は持続します。諸仏は四禅においても悟りを証し、凡夫の意識は二禅で思考を失い、三禅・四禅では意識の思考が滅じますが、極めて微細な知性は存続します。深い禅定は意識の思考を抑制しつつ意根の思量を活性化させます。意識と意根が共存する場合、その思慮活動は相互に消長し、意識が過度に活発化すれば意根の思量は阻害されます。

論理的推論は全て言語文字を伴う意識活動であり、意根はこれを活用できず、最終的な正覚を証得することはありません。意根は言語文字を持たないため、真の参禅は意根を主とし、祖師の説く「心意識を離れて参究せよ」とは意識の粗い思考を排することを指します。

——生如法師の開示
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