衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年09月12日    土曜日     第1 回の開示 合計2611回の開示

徳が位に相応しなければ必ず災いがあると言われるのはなぜか?

徳とは、福徳・品徳・人格・教養・才能・技量など、あらゆる活用可能な資源を含む。位とは、地位・権勢・名声・名称・眷属・利益などを含む。これらの資源を投資してその位を得るにあたり、もし資源が不足すればそれは高利貸しのようなもので、最終的に資産が負債を賄えず、倒産・破綻・負債を負い、場合によっては家屋敷を失い命をもって償うことにもなる。もし命をもってしても償いきれず、福徳の欠如が甚だしいならば、三悪道に堕ち、さらに三悪道の最底辺に沈むこととなり、再び上がることは極めて困難となる。

世間の名声や権勢は誰もが良いものと感じ、欲するものであるが、その福徳が不足している場合、手段を弄して強引に奪い取ろうとすれば、高利貸しが人に多大な代償を払わせるように、最終的には無名で穏やかに過ごす方が堅実で実のある生活であることに気付くであろう。人生において、何を争う必要があろうか。凡て手に入れたものは、相応の福徳を消耗する必要があり、福徳が消耗し尽くされれば、人としての資格も失われる。故に名聞利養を求めず、他人に高く評価されることを求めず、権貴を尊重することを求めず、人から仰がれることを求めず、手段を選ばず、人上に立つことを求めず、人下にいる者の方が利益が大きく、謙虚で譲る心が即ち福を生み、慎み深さが即ち福を生むのである。

逆に、自らの様々な欲望が実現した時、即ち福徳を消耗し、名声が高まった時、福徳を消耗し、志を得て満足した時、福徳を消耗する。福徳を最も大きく早く消耗させるのは、悪事を働き悪業を造ることである。戒律を犯し規範に背く行為は全て福徳を最大に消耗させる行為であり、五戒十善に背き、殺生・盗み・邪淫・妄語、貪り・瞋り・嫉妬、両舌・悪口、奸逆の小人となること、凡ての悪しき心と行いは、極めて大きく福徳を消耗させる。福徳が尽き果てれば、人間界における一切の事業は廃れ、もはや人として存在する必要もなくなる。

得ることは即ち福を消し、失うことは即ち業を消す。人から尊重されるには福徳を消耗する必要があり、人から罵倒されることは業を消すことができる。故に忍辱は徳となり、忍辱は福を生み、忍辱は大業を成し遂げる。道を見て道を成すことが即ち大業となり、最終的に仏となり頂点の業を成就すれば、もはや修行する必要なく大楽を得る。故に忍辱は大業と大楽を成し得る。福は尽くすまで享受せず、辱は尽くすまで受けるべきである。福があっても享受せず、辱は必ず受けるべきである。大志を抱く者はこのことを謹んで心に留めるべきである。

——生如法師の開示
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