衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年09月14日    月曜日     第1 回の開示 合計2618回の開示

意根が夢の中と外の一切法を了別する

もし夢の中の境界と現実の境界が関連付けられるならば、夢の中と外の一切法を意根が識別できることを示しており、かつ意根が先に現実世界の状況を識別し、その状況に強い関心を抱いたため、現実の境界を夢境に変換し、意識をも参画させて識別させたのです。

人が眠りにつき六識が滅びても、意根は依然として如来蔵に依って一切法を識別できます。外部の録音機から流れる説法の声も、意根は聞き取ることができます。ただし、その分別と識別の智慧は十分に強くなく、しかも説法に関心を持ったため、夢を見させて意識に夢境の説法を識別させたのです。しかし意根は現実の境界を明確に識別できず、夢境は外界と関連性があるものの、なお差異が存在します。これは多くの境界を意根が完全に理解していないことを示しています。

ここから我々は、意根が覚醒時も睡眠時も六塵境界における一切法を認識していることが分かります。重要なのは、その認識の緻密さと正確さの程度です。無始劫以来、意根が極めて慣れ親しんできた事柄については、識別が非常に迅速かつ正確に行われます。あまり慣れていない事柄については、識別が遅く不正確で、誤りが多く、作り出された夢境と現実には一定の差異が生じます。

私が仏法に触れたばかりの頃、ある昼間に家で供養に関する録画を放映していました。チベット地域で集団で屠殺される牛に対し、密宗の僧侶たちが供養を行う様子です。牛の数は非常に多く、前半の供養の場面は厳かで、後半の屠殺場面は凄惨を極め、血の川が流れ、牛たちは恐怖に震え悲痛な鳴き声を上げていました。録画は約30分から1時間ほど続きましたが、当時の私はまだ完全に仏教を信仰していなかったため、録画を流しながら眠りに落ち、眠りながらも録画の音声を聞き続け、やがて夢を見始めました。その夢は外部の録画内容と全く同じで、録画の進行に合わせて夢も展開し、途中で目覚めようと試みましたが覚醒できず、録画の内容を認識しながらも、夢の中では血生臭い場面や牛の悲鳴、中には人間に跪く牛さえ現れました。

この夢は完全に意根によって導き出されたものです。眠りにつき六識が機能しなくても、意根はこの事象に強い関心を持ち、夢を生じさせました。外部の帯質境映像を独影境に変換し、意識にも識別させたのです。内外の境界を意根は同時に縁取ることができ、外部の録画内容も夢中の情景も認識しています。夢中では牛群への供養と屠殺の光景が生き生きと描かれ、夢と現実の境界はほぼ一致し、心の中では次々と変わる光景を認識しながらも、目覚めることができませんでした。

夢と現実の情景に関連性がない場合でも、夢境は意根が昼間に興味を持ち、気にかけ注視していた内容であることを示しています。夜になると意根は夢を生じさせるのです。昼に思惟すれば夜に夢を見るというように、意根は昼夜を問わず注視し続けるため、夢が現れるのです。夢境からは修行の程度を判断できるため、ある種の夢には一定の意義が存在します。

——生如法師の開示
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