衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2020年09月16日    水曜日     第1 回の開示 合計2624回の開示

仏菩薩の応化は、すべて不苦不楽の受なのでしょうか?

不苦不楽受もまた受の一つであり、念念生滅し遷流変化することを行苦と名付け、故に全ての受は苦である。しかし不苦不楽受は受の中でも最も安楽な受であり、心を乱さない。この受は、第一に智慧によって引き起こされ、第二に禅定によって引き起こされ、第三に禅定と智慧の共同作用によって引き起こされる。禅定と智慧が共同して引き起こす不苦不楽の捨受は、苦にも楽にも偏ることなく、かつ比較的持続的で堅固である。

禅定を失えば捨受は偏りを生じ、時に苦に偏り、時に楽に偏り、縁に従って変化する。しかし智慧が支えとなっているため、偏りと変化はまだ大きくなく、時と場所に応じて調整可能である。この智慧は真実の智慧、実証後の智慧を要し、意識的理解による智慧ではない。意識的理解の智慧は元来禅定の依り所と支えを欠くため、その作用は小さい。

仏菩薩が娑婆世界のような世間に応現する際、仏は無上智を具え、心は常に禅定にあるため、永遠に受なく、一切の受を受けず、故に一切の苦楽受及び不苦不楽受をも受けぬ。例えば釈迦仏の一族が琉璃王に誅殺されても、仏は坦然として平常と異ならず。これは因果の法則を看破する大智慧を有し、避け難き因果を知り、親眷が幻化無常であり永遠の親眷でなく実体なきことを悟る故である。更に仏の禅定力により、これらの所謂不幸に坦然と向き合う。

しかし阿難は不可。阿難はこの事態に直面し心乱れ苦悩した。阿難も再来の菩薩であり、苦悩は示現かもしれぬが、示現を離れて見れば、阿難の苦悩は第一に情執(親情への執着)残存、第二に衆生世間の幻化無常を見破れぬこと、第三に因果関係を見透かせぬこと、第四に阿難が初禅定のみ(釈迦仏の加持による)を有し、初禅定が常に現前せず心が恒常的に禅定に安住せぬことによる。これら要因が阿難の心境を仏陀と截然と異ならしめ、苦受を捨てて泰然たる境地に至れぬ所以である。

四地以上の菩薩は四禅八定を円満具足し、心は常に三昧に安住し不苦不楽の捨受を保つ。但し七地菩薩までは無余涅槃に入る傾向を残す。何故か。未だ世間を喜楽せず、捨受が不徹底で執念残存の故。八地以上の菩薩は心更に空しく法執極めて微細、情執断尽し宿業ほぼ消滅、智慧と慈悲深利なるが故に、心永遠に不苦不楽受と相応し徹底究竟する。

初地以前の菩薩は煩悩未断のため苦楽受あり、時々不苦不楽受も現れる。初地から四地の菩薩は煩悩を断ずるも煩悩習気残存し重厚、習気発現時には苦楽受を生じ、不苦不楽受の時多く内心平静保つ。この時期、大小の業障が現前し、禅定弱まれば苦楽受生じ、禅定深く維持されれば環境如何に拘わらず心静謐を保つ。

要するに菩薩が如何なる受の中に在るか、或いは無受の中に在るかは、定慧三昧力の深浅、業障の厚薄、執念の有無深浅、その他諸因縁による。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

どの意の念が功を奏するか

次の記事 次の記事

戒定慧の三学

ページのトップへ戻る