衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年11月25日    日曜日     第1 回の開示 合計1035回の開示

離心意識による参禅の原理

問:我見を断つことは、意識による反復的で深遠なる理に適った作意の観行であり、意識が末那識に対し五蘊の虚妄性を証拠立て、最終的に末那識が承認する過程である。これは証拠提示、説得、再提示、再説得の循環プロセスである。意識は観行の証拠を徐々に末那識に提示し、最終的に末那識が承認する。この承認も相応と言えるか?我見を断つことも末那識との相応と言えるか?承認の意味と相応の違いは何か?

答:意識による反復的で微細な思惟観行を通じ、全ての証拠を徐々に末那識に提示すると、末那識が証拠の確実性を思量し承認する。この承認は末那識が覚醒し、五蘊無我の理に相応したことを示す。証拠が充分であればあるほど現量の境が多く現れ、末那識はより承認し相応する。末那識は現量境を認め、非量の想像とは相応せず、証拠のみを求めるからである。

末那識が無我の理に相応すると「ああ、そうであったか」と認識する。末那識は自らの五蘊が全て幻であることを知らず、今や証拠が眼前に示され、この理を認めざるを得ない。従来は意識がある程度無我の理を知っていたが、末那識は慧が浅く境界を了別する力が不足し、深微な思惟ができなかった。

意識の分析的思惟による理解は解悟に属す。これは定力が不十分で末那識に深達せず、末那識が理を明らかにしていないためである。定力が優れれば意識の思惟は深まり、表面的理解を減じ、意識の動きが緩慢になることで末那識の思量力を発動させる。末那識自らが理解すれば、意識も必然的に理解する。定が浅く意識的分析が多い場合、意識は理解し易いが末那識に提示する証拠が不足し、末那識自身の思量性も不十分で理を明らかにしない。

意識が分析を減じて意を用い、末那識に多く思量させれば、五蘊無我を証悟できる。末那識の承認する力は極めて大きく、自心を変え、身口意行を改め、業行を転じ、業種を変化させる。この修行は大いなる捷徑である。末那識に多く意を用いさせ現量を証得せしめるには深く禅定に入り、意識の動きを減ずることが参究の原理である。歴代の禅師は皆このように学人に心意識を離れて参禅せしめ、分析や情思意解を禁じてきた。しかし其中の深い道理を必ずしも理解せず、これが末那識の功用であり相応であることを知らなかった。末那識の作用は唯識種智の領域に属するが、多くの禅師は唯識種智を生起していない。

故に我見を断つ原理も参禅の原理と同じく、末那識を利用し、末那識に密かに五蘊無我性を思量させ、意識が定中で深細に思惟し緩慢深く動くことで末那識に深達し、無我性に相応するのである。末那識の全ての機能体性作用を発掘すれば、修行は大いなる捷徑、最も大なる捷徑となり、跳躍的な修行が可能で成仏は極めて迅速となる。

——生如法師の開示
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