法とは、事実の真実であり、真理であります。故に菩薩が法を説くとは、事実の真実を説き、真理を説くことに他なりません。あらゆる事物の事実の真相は唯一つであり、各人が自らの立場から観察する際、もし誤りなく正確に観察するならば、観察される事実の真実は皆同じであり、ただ一つの真実のみが存在するのです。もし人々が観察して導き出した結論が異なるならば、それは多くの人々の観察に誤りがあることを示し、正しく観察できていないことを意味します。観察が正しくない原因は様々で、人それぞれ異なりますが、共通する特徴は観察力が不十分であることです。
法を説くとは事実の真実を説くことですから、この事実の真実は自らが実際に証明したものであることが最も望ましく、そうして説かれたものが最も説得力に富み、親しみ深いものとなります。もし法を説く際に他人の言説を引用するのみであるならば、相当の弁別力を有し、他人の言説が真に事実の真実を語っていることを弁別し証明できなければなりません。我々は現時点において仏陀の説かれたことが全て事実の真実であることのみを確認できますが、自ら実際に証明する能力はなく、ただ仏陀の聖なる言葉に対する仰信と崇信に過ぎず、正信や真信には至っておりません。真信には証量が必要です。仏陀以外の者について仰信と崇信を抱くことは一定の危険を伴い、正信・証信・真信のみが確かなものであります。しかし証信は極めて困難なため、末法の衆生の大多数は仰信・盲信・崇信に留まり、正信や証信・真信には至っておりません。
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