禅定は未到地定より始めて煩悩を対治し、煩悩を降伏せしむ。煩悩を降伏せしめて、あるいは遮障を除き軽減せしめて初めて初果を証得する。初果人は見地あるのみにて、見所断の三縛結を断じたるなり。されど三縛結を断ずるには必ず未到地定を要す。未到地定は修定によりて発起すべきなり。されど修所断の煩悩と同一視すべからず、別事なり。
初果の見地は見道時に断ずる見惑なり、なお思惑煩悩は未断なり。思惑煩悩は見道後に修道を進めて漸次に断ずるものなれど、これも見地に属す。見地愈々透徹し、到位すれば、我と我所の断除愈々深く、心愈々空しく、煩悩愈々微薄となる。
初果の見惑は初見道時に断ずるといえども、初見道もまた漸次修道の結果なり。修せざれば見惑を断ずること能わず。修道の内容は三十七道品なり。三十七道品の一つは禅定なり。三十七道品を修せず、あるいは修満足せざれば見道すること能わず、況んや見惑を断ずることをや。故に未到地定は初果人の見道に具足すべき必要条件なり。
初果見道に先立ち、従前の貪瞋痴の煩悩を一定程度に降伏せしめ、貪瞋痴の煩悩が自らの見道を妨げ障らざらしむべし。三十七道品の修行過程にて、極めて重き貪瞋痴の煩悩を漸次に降伏せしめ、煩悩漸く微薄となり、心漸く柔軟となり、智慧漸く明朗となる。全ての遮障は密雲の如く漸く稀薄となり、智慧の陽光雲間を透して現れ出ず。ここに於いて見道するなり。
見道前の煩悩淡薄なるは、従前の重き煩悩と相対する言なり。二果時の貪瞋痴淡薄なる程にはあらず。両者は差異あり、皆相対的なる角度よりの言なり。語彙同じくとも内包全く異なり、混同すべからず。
四聖諦:苦聖諦・苦集聖諦・苦滅聖諦・苦滅道聖諦。其の中の苦滅道聖諦は即ち修道の真理、依るべき理論なり。この理論の修学は初果以前より始まり、四果阿羅漢を証得するまで続く。故に修道は見道後に始まるにあらず、四聖諦に触るる時より既に修道始まれり。最初に四念処観を修する時より修道始まれり。修せざれば如何にして見道せんや。三十七道品中の四正勤:一に已生の悪法を断ぜしめ、二に未生の悪法を生ぜざらしめ、三に未生の善法を生ぜしめ、四に已生の善法を増長せしむ。これらの修善滅悪の修道内容は正に衆生の煩悩を対治するものなり。対治して煩悩を降伏せしめ、之を微薄ならしめて、初めて見道するを得るなり。
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