(四)原文:多聞の聖弟子は諸々の縁起について、善く思惟し観察する。すなわち楽触を縁として楽受が生じる。楽受を覚知する時、そのまま楽受の覚知を如実に知る。その楽触が滅すれば、楽触の因縁によって生じた受もまた滅し、止寂して清涼となり滅没する。楽受と同様に、苦触・喜触・憂触・捨触を縁として捨受が生じる。捨受を覚知する時、そのまま捨受の覚知を如実に知る。その捨触が滅すれば、捨触の因縁によって生じた捨受もまた滅し、止寂して清涼となり滅没する。
釈:仏は説かれた。多聞の聖弟子は一切の縁起法について善く思惟し観察すべきである。心に楽触の因縁が和合して楽受が生じた時、楽受を覚知する際にはそのまま楽受の覚知を如実に了知する。楽触が滅した時、楽触の因縁によって生じた受覚も滅し、心は清涼となり止寂する。楽受と同様に、苦触が生じた時には苦の覚受を如実に了知し、さらに喜触・憂触・捨触の因縁によって喜の覚受・憂の覚受・捨受が生じた時にも、それぞれを如実に了知する。喜触・憂触・捨触の因縁が滅すれば、それらの受もまた滅し、心は清涼寂止となる。
多聞の聖弟子はこのように思惟すべきである。これらの受触は触の楽受と触の束縛を引き起こす。それぞれの触が楽であるが故に、それぞれの受が楽となる。それぞれの触の楽が滅すれば、それぞれの受の楽もまた滅し、止寂して清涼となる。このように観察する時、世間の一切法は因縁によって生じたものであり、一法として因縁によらないものはない。因と縁があれば世間法は集起し、因と縁がなければ法は現れない。縁が異なれば生じる法も異なり、衆生の色身も生存環境も異なる。縁はどこから来るのか。身口意によって形成された種子である。多聞の聖弟子は諸々の縁起について善く思惟観察するが、凡夫はこれを思惟せず、一切を当然のことと考える。聖弟子が縁起を観察する時、生老病死の源を深く究明し、最初の縁起に至るまで探求する。
楽受を例に因縁生法を説明すれば、苦触・喜触・憂触・捨触はいずれも縁によって生じた感受である。苦楽憂喜捨の受が生じるのは、苦触・楽触・喜触・憂触・捨触という触があるが故である。これらの触の縁がなければ、心の感受は生じない。ゆえに苦楽憂喜捨の触は虚妄であり、感受もまた虚妄で生滅変化する無常のものである。すべての縁起の背後には原因と奥義が存在する。
捨受とは何か。苦も感じず楽も感じず、快も苦も覚えず、自らを忘れたように他の感受を持たない状態を指す。捨受はいつ生じるか。座禅中に現れることが多い。時として自他を忘れ、周囲を忘れ、楽受も苦受も生じない時、それが捨受である。心が定にある時は、今苦受がある、楽受がある、喜受がある、憂いの感受があることを明瞭に自覚できる。それらの苦楽憂喜捨の触が滅すれば、感受もまた消滅し、寂静して止まり、心は清涼寂滅となる。
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