衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年11月26日    月曜日     第7 回の開示 合計1043回の開示

悟りを開いた後の転依の成功に関する問題

悟りと転依の成就について、真に徹底的に如来蔵の清浄無為の性質への転依に成功された方は仏陀世尊であり、その心は完全に究竟清浄にして余すところなく、無明は尽き、染汚は尽きておられます。仏陀世尊は三大阿僧祇劫の修行を経られ、明心して悟りを開かれた後、絶えず自他の五蘊身心の造作において如来蔵が有為法の世間を造作する際の清浄性と無我性を観察され、第六・七識が徐々に感化され震撼を受け、少しずつこれに随学し、染汚性を清浄性に転換され、ますます無我となられました。まず我執を断じ、後に法執を断たれ、内面はますます空となり、無為に近づき、如来蔵に似たものとなり、転依の程度が深まるにつれ、完全な無我に至り、無明を断尽して初めて転依が究竟成就されるのです。

その他の菩薩たちは真に明心して悟りを開いて以降、第六・七識が徐々に如来蔵の清浄なる体性へ転依し始め、転依する部分に応じて染汚性が消滅し、清浄性が増大し、菩薩の智慧が一段階増すごとに、果位が一階位躍進し、仏陀となるまで続きます。

もし真の悟りではなく解悟や仮の悟りに留まり、単に密意を知る結果を得ただけで、中間の実修過程を経ていないならば、如来蔵への転依に関わることはできず、転依とは無縁です。如来蔵を証得していないため、現前に如来蔵の働きを観察できず、如来蔵が如何に清浄であるかを知ることができず、第六・七識が模範を見出せないため、随学することが不可能で、その心は清浄となることがありません。

模範の力は無限です。朱に近づけば赤く、墨に近づけば黒くなる如く、如来蔵に近づけば必ず如来蔵のように無我かつ清浄となり、有為の中にあってその心は無為となります。真に如来蔵を証得していなければ、五蘊に近く、煩悩に近いため、その心は清浄になれず、無為となることもなく、無為性を具えることができません。

現代の仏教界に退転の説が流行する理由は、多くの人々が真実の修行と実証を欠き、中間の参究過程がなく、観行による我見断絶の過程を経ていないため、いずれも実修実証がないことにあります。さらに大部分の人々は禅定が不足し、定力が弱く、観行思惟もできず、参究も行わないため、悟りが真実でなく、単に結果を知るのみで、噂を聞いたり推測したりしたもので、真の悟りではないため、退転の説が生じるのです。実際には如来蔵に至る修行を全く行っていないため、退転の問題に言及する余地もなく、如来蔵への転依について論じることもできません。仮に如来蔵への転依の成就を以て初めて悟りとするならば、転依成就以前は最高でも解悟に過ぎず、証悟ではないのです。

——生如法師の開示
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