悟りを得た後に退転する可能性があるかどうかについて、ここには二つの問題が関わっています。一つは悟りが真の悟りか偽の悟りか、どのように悟りを得たか、悟りの過程はどうであったかという問題です。もう一つは退転とは何を指すのか、どこへ退くのか、どこへ向かうのかという問題です。
最初の問題として、悟りという概念は自心を開き、真実の自性である如来蔵を悟ることを指します。自心を開くことは非常に困難なことです。無始劫以来、私たちは五蘊身心を実在する「私」と見なして執着し続け、強く貪愛し固執してきました。そのような貪愛と執着の心を転換させ、六識と七識に五蘊身心を否定させ、これまで一度も会ったことのない、非常に馴染みがなく捉えどころのない真実の心である如来蔵を認めさせることは、非常に難しいことです。このことは大丈夫でなければ成し遂げられず、相当の善根と福徳、そして大きな勇気と忍耐力が必要です。自心に固有の誤った見解を一歩一歩調伏し、無始劫以来の認知的習気を絶えず否定し続けなければなりません。古い思想的偏見と絶えず戦い続け、完全に自身の五蘊身心を否定し、身の中に不生不滅の真実の心である如来蔵を「私」とする正しい観念を確立し、心性が調伏され、真実の自性に対して柔順忍を得て初めて、真実の如来蔵を証得する因縁が得られるのです。
如来蔵を証得する前に、五蘊身心の虚妄で実体のない性質を観行し、絶えず五蘊身心を否定し、打ち倒し続け、五蘊身心を「私」とする邪見を断じて初めて、真の自性を本当に認める方法が得られます。つまり、五蘊身心は必ず倒れ死ななければならず、その死体の中からこそ活き活きとした自性如来蔵を見出すことができるのです。必ず一度の「死」を経験しなければ、あの生気溢れるものを証得することはできません。そうでなければ、死んだ者を生ける者と見なしたままでは、真の大活人を認めることは不可能です。したがって、悟りの前には必ず我見を断たなければなりません。我見を断った後の一時間、一日、数日のうちに真実の如来蔵を見出したとしても、やはり先に我見を断ち、五蘊身心を死なせてこそ、真の如来蔵の真心を証得するのです。この我見を断つ過程がなければ、真に明心して悟ることは不可能であり、それは偽りの悟り、心が開かれていない状態です。
もう一つの問題は、凡夫は無始劫以来一度も悟ったことがなく、初めて悟るには非常に長い参究の過程が必要だということです。この過程において七覚分は全て起こり、具足されなければならず、八正道も修め終え、三十七道品も全て修め成就されなければなりません。菩薩の六波羅蜜の条件も全て満たされ、心性が調柔になり、初歩的に大乗菩薩の資質と心持ちを備えて初めて、明心して悟りを得て、真に名実相伴う菩薩となるのです。このようにして悟った者こそが真の悟りであり、偽りの悟りではありません。真の悟りを得た者、長期間にわたる辛抱強い参究の過程を経て果実を得た者は、この得難い果実を非常に大切にし、重んじるため、真実の自性である如来蔵から退転することはありません。
二つ目の退転に関する問題は、真実の心である如来蔵から退くこと、すなわち如来蔵を真実の不生不滅の真心と認めず、以前のように五蘊の機能作用を真実で不滅の「私」とする見解に戻り、真心から妄心である七識へと転じ、再び妄りを真と認め続けることです。
このような状況が生じる最も大きな原因は、悟った内容が真実でなく、見解が固まっていないことです。その一因として、我見を断つ過程を経ていない、五蘊を「私」とする我見が断たれていない、五蘊が死んでいない、あるいは完全には死に切れていないことが挙げられます。
もう一つの原因は、長期間にわたる如来蔵の参究過程がなく、如来蔵に対する次第に明確で透徹した認識が得られていないこと、如来蔵の無我という体性を忍可しておらず、如来蔵の形も相もなくひっそりと働く運行のメカニズムを忍可していないことです。如来蔵に対することは霧の中から花を見るようで、せいぜい理解の域に留まり、全く真に如来蔵を見出し証得してはいません。また、如来蔵が五蘊身心上でどのように作用しているかを全く観察できず、五蘊身心の運行における如来蔵の清浄性や無我性、そして真実性を観察できないのです。
したがって、このような朦朧とした如来蔵への認識は確固たるものではなく、自らの内心を震撼させることもできず、真実の自性である如来蔵を宝物のように愛おしむこともできず、再び一見実在するように見える五蘊の機能作用を「私」として執取するしかなくなります。これが退転とその原因です。真に確固たる明心開悟は、五蘊が完全に死に切り、悟った内容が非常に真実であり、真実の心の働きを現前に観察できる状態であり、もはや五蘊の機能作用を執取することはありません。したがって、誰が説得し誤導しようとも、如来蔵の無上菩提から退転することは決してないのです。
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