衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
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仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年11月26日    月曜日     第6 回の開示 合計1042回の開示

悟りは退転するのか

悟りを得た後に退転するか否かについては、二つの問題が関わってきます。一つは悟りが真実の悟りか偽りの悟りか、どのように悟りを得たか、悟りの過程はどうであったかという問題。もう一つは退転とは何を指すのか、どこへ退き、どこへ転ずるのかという問題です。

第一の問題について、悟りという概念は自心を開き、真実の自性である如来蔵を悟ることを指します。自心を開くことは極めて容易ではありません。無始劫以来、私たちは五蘊身心を実体ある我と見做し、絶えず執着し、深く貪愛し執着してきました。このような貪愛執着の心を転換し、第六・七識に五蘊身心を否定させ、未だ会ったこともなく捉え所のない真実心である如来蔵を認めさせることは、非常に困難なことです。この事は大丈夫でなければ成し得ず、多大な善根と福徳、並びに相当の勇気と毅力を必要とします。自心に固有する誤った見解を一歩一歩調伏し、無始劫以来の認知習気を絶えず否定し、旧来の思想的偏見と戦い続け、ついに五蘊身心を完全に否定し、身中に不生不滅の真実心である如来蔵を我と見做す正しい観念を確立し、心性が調伏され、真実の自性に対して柔順忍を得て初めて、如来蔵を証得する因縁が生じるのです。

如来蔵を証得する前に、五蘊身心の虚妄不実性を観行し、絶えず五蘊身心を否定し、打ち倒し続け、五蘊身心を我とする邪見を断じて初めて、真実の自性を認める方法が得られます。つまり五蘊身心は必ず倒れ死ななければならず、その死骸の中から活き活きとした自性如来蔵を見出すのです。必ず一死を経て、あの生気溢れるものを証得しなければなりません。さもなくば死人を生ける者と見做したままでは、真の生ける者を認めることは不可能です。故に悟りを得る前には必ず我見を断じ、我見を断った後一時間でも一日でも数日でも真実の如来蔵を見出すにせよ、まず我見を断ち五蘊身心を死なせて初めて真実の如来蔵を証得するのです。この我見を断つ過程なくして真に明心開悟することはできず、それは偽りの悟りであり、心は開かれていないのです。

もう一つの問題として、凡夫は無始劫以来一度も悟ったことがなく、初めて悟るには長期間の参究過程が必要です。この過程で七覚支を発起し具足させ、八正道を修め終え、三十七道品を修得し、菩薩六度の条件をも満たし、心性を調柔させ、大乗菩薩としての資質と心地を初歩的に備えて初めて明心開悟し、真に名実相伴う菩薩となるのです。このように悟った者こそ真の悟りであり、偽りではありません。真に悟った者は、長期間辛苦を重ねた参究過程を経て得た果実を深く慈しみ大切にし、決して真実の自性如来蔵から退転することはありません。

第二の退転に関する問題は、真実の如来蔵から退き、如来蔵を真実の不生不滅の心と認めず、再び五蘊の機能作用を真実不滅の我と見做す知見に戻り、真実心から妄心である七識へ転じ、妄りを真と認め続けることです。

このような状況が生じる主因は、悟りの内容が真実でなく知見が固まっていないことにあります。一つの要因は我見を断つ過程を経ておらず、五蘊を我とする我見が断たれず、五蘊が死んでいない、あるいは完全に死に切れていないことです。

もう一つの要因は、長期間にわたる如来蔵の参究過程を経ず、如来蔵に対する次第に明晰透徹した認識がなく、如来蔵の無我なる体性に忍可せず、形も相もない静寂な運行機制に忍可していないことです。如来蔵を霧中に花を見るが如く、せいぜい理解の域に留まり、真に如来蔵を見出し証得していないのです。如来蔵が五蘊身心に作用する様を観察できず、五蘊身心の運行における清浄性と無我性、そして真実性を観察できないのです。

従ってこのような朦朧とした如来蔵の認識は実体がなく、自心を震撼させる力もなく、真実の自性如来蔵を宝愛することもできず、再びあたかも真実であるかのような五蘊の機能作用を我として執取するしかありません。これが退転とその原因です。真に確固たる明心開悟においては、五蘊が完全に死に切り、悟った内容が極めて真実であり、真実心の運行を眼前に観察できるため、再び五蘊の機能作用を執取することはありません。故に如何なる説得や誤導があろうとも、如来蔵無上菩提から退転することは決してないのです。

——生如法師の開示
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