(三)原文:復次に、比丘は苦を正しく尽ぼすことを思量し観察し、苦の究竟の辺際に至らんとすれば、かの愛が何を因とし、何を集とし、何より生じ、何に触れて起こるかを思量すべし。かの愛は受を因とし、受を集とし、受より生じ、受に触れて起こることを知るべし。かの受が永く滅して余すところなきとき、愛もまた滅す。かの乗ずべき愛滅の道跡を如実に知り、彼の向次法を修習する、これを比丘の苦を正しく尽ぼすに向かうと名づく。究竟の苦の辺際とは、すなわち受の滅を謂う。
釈:復次に、比丘は苦を正しく尽ぼすことを思量し観察し、苦の究竟の辺際に至らんとすれば、貪愛がどのような因縁によって生じるか、どのような法の集起によって生ずるか、どのような法の出生によって生じるか、どのような法の接触によって生ずるかを思量しなければならない。思量観察の後、貪愛は受の因縁によって生じ、受の集起によって生じ、受の出生によって貪愛が生じ、受の接触によって貪愛が生ずることを知る。もし受が永遠に滅尽すれば、貪愛もまた滅尽する。比丘たちが修ずべき愛滅の修道の軌跡を如実に了知し、向法と助道法を修習すれば、このように比丘たちは苦を正しく尽ぼす方向に向かい、究竟の苦の辺際に到達するのである。すなわち受覚を滅除することをいう。
受の前には触があり、触れなければ受は生じず、受がなければ貪愛は存在せず、貪愛がなければ取はない。衆生は日々に触れ続けてやまず、六根が六塵に触れなければ耐えられぬと感じる。なぜ耐えられぬと感じるか。無明による。その根源は無明にある。真に修行する者の意根が降伏し、攀縁を止め、空を証得してこそ、寂静に耐えることができるのである。
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