(二)原文 :また、比丘は苦を正しく尽ぼし、究竟の苦の辺際に至ることを思量し観察する。その時、彼の取が何を因とし、何を集とし、何より生じ、何に触れて起こるかを思量する。取は愛を因とし、愛を集とし、愛より生じ、愛に触れて起こると思量する。かの愛が永く滅び余すところ無ければ、取もまた随って滅ぶ。彼が修める取を滅ぼす道跡を如実に知り、彼の向かう次第の法を修習する。これを比丘が苦を正しく尽ぼす方向に向かい、究竟の苦の辺際に至るという。すなわち愛の滅びを説く。
釈:さらに、比丘が苦を正しく尽ぼすことを思量し観察し、究竟の苦の辺際に達しようとする時、取がどのような因縁で現れるか、どのような法が集起して現れるか、どのような法が生じて取の発生を引き起こすか、どのような法が触れて取の発生を引き起こすかを思量するならば、取の出現は貪愛を原因とし、貪愛が集起する因縁によって生じ、貪愛が生じれば取も生じ、貪愛が触れれば取も生じ、貪愛が滅べば取もそれに随って滅びると知るべきである。比丘たちが修める取着を滅ぼす道跡と路径を如実に了知し、苦を滅ぼす法とそれを助ける次第の法に向かって修行しなければならない。これが比丘が次第に苦を正しく尽ぼす方向に向かい、究竟に苦の辺際に達する方法である。すなわち貪愛の滅尽を指す。
衆生がもし取を滅ぼし、もはや諸法に取着しなければ、衆苦は滅びる。究竟的に如何にして苦を滅ぼすか、その中間に修めるべき道は何か、我々は如実に了知しなければならない。苦を滅ぼす修行方法を如実に了知すること、これが苦を正しく尽ぼす方向に向かう向法と次第の法を修習することである。すなわち三十七道品、四正勤・四如意足・五根・五力・七覚支・八正道を含む。向とは苦滅に向かう方向を指し、次とは補助的な有益な法を指す。主要な法は五蘊を観察して我見を断じることである。向次法を修習する目的は我見を断つ準備を整え、見道の前提条件を満たすためであり、これによって如理に観察し観行し、最終的に証果を得て我見を断ずるのである。
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