(九)原文:仏は比丘たちに告げた。汝らはどう考えるか。もし無明を喜ばずして明が生じたなら、再びその無明を縁として福行・非福行・無所有行を作るであろうか。
釈:仏は比丘たちに言われた。汝らはこのことをどう考えるか。もし汝らが無明を喜ばず、心に明が生じたなら、その後もなお意根の無明によって福行や非福行、あるいは非福行でも非非福行でもない捨行を作るだろうか。
明と無明は二つの対立する面である。無明があれば明はなく、明があれば無明はない。無明が少し減れば残りは明となり、全てが明となれば無明は消滅する。天秤の両端の如く、無明が高まれば明は低くなり、無明があれば明はなく、明があれば無明はない。無明がなくなれば、意根には心行が生じず、六識は身口意の行を作らず、再び胎を受けることもない。名色がなければ六入もなく、六入がなければ触もなく、触がなければ受もない。受がなければ貪愛せず、貪愛しなければ執着せず、執着しなければ生存の条件がなくなり、三界の有も消滅する。有がなければ名色は生じず、老病死憂悲悩苦は全て滅び、生死の苦しみは解決される。
このように比丘たちは三界を出離し解脱を得るが、この解脱は未だ究竟のものではない。一念の無明を滅した暫定的な解脱に過ぎず、極めて微細な無明が残存している。故に微細な生死の苦が未だ滅しておらず、解脱は不究竟である。仏の解脱こそが究竟の解脱である。如何にして仏の如く究竟の解脱を得るか。三界を出ずることを止め、大誓願を発し、大乗の教えを修し続け、五蘊身を保ちつつ自らを度し他を度し、上求下化して一切法を円満せしめ、はじめて究竟の解脱を得るのである。
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