衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年12月01日    火曜日     第3 回の開示 合計2858回の開示

父子合集経講話(三九)

外火界は来る所なく来り、去る所なく去る

外火界は共業の衆生の如来蔵が共同で保持するものであり、単独の個人の如来蔵では外火界を保持できず、ただ自身の身体内の火界を保持するのみである。昔は今のようなマッチやライターがなく、他の方法で火を起こしていた。凸レンズを用いて太陽光を集め、蓬草・牛糞屑あるいは兜羅綿に点火し、その後他の物に移して炊事や物質の加熱に用いた。

この火が燃え広がると、草木山林や集落を焼き尽くす。元々一点の火もなかった所から生じた火が山野を焼き払い、山全体を消失させ、高き樹木も大森林も破壊する。さらに蔓延すれば全世界を焼き尽くす。この火はどこから来たのか。まず如来蔵由来説は措き、空を論ずれば、太陽由来ならば凸レンズなしに太陽光が照射しても発火しない。太陽に森林を焼く火があれば、衆生の身体も焼き尽くされ、我々は瞬時に死滅し、世に生命は存在し得ぬ。故に太陽由来ではない。

虚空から来るのか。虚空由来でもない。虚空に火があれば一切の物体は焼失し、世は空無となる。太陽にも虚空にも人手にも鏡にも草にも由来せず、来処なし。まず小乗的解釈を述べる。火界は来る所なく来り、やがて消滅する時も去る所なく去る。去処あれば火の存在する所は全て燃える。火界とは燃焼性と熱性そのもので、来処を求めても得られず、去処を尋ねても見出せぬ。実質は全て如来蔵性、如来蔵の機能である。故に万法を究極まで遡れば、全ては我々の真心に帰結する。これ以外に真実の法は存在しない。

——生如法師の開示
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