衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2020年12月11日    金曜日     第1開示 合計2894開示

長阿含大縁方便経第九

(八)原文:阿难。彼见我者。以受为我。彼则为非。阿难。彼见我者。言受非我。我是受者。当语彼言。如来说三受。苦受乐受。不苦不乐受。若乐受是我者。乐受灭时。则有二我。此则为过。若苦受是我者。苦受灭时。则有二我。此则为过。若不苦不乐受是我者。不苦不乐受灭时。则有二我。此则为过。 

解釈:阿難よ、内に我を見る人は、受を我とみなすが、彼らの見解は正しくない。阿難よ、我見のある人々は、受は我ではないが、我こそが受であると言う。この人々を救済するためには、彼らにこう説くべきである。如来は三つの受を説かれた、苦受・楽受・不苦不楽受である。もし楽受が我であるなら、楽受が滅したときには二つの我があることになる、苦受の我と不苦不楽受の我である。これはもちろん正しくない。もし苦受が我であるなら、苦受が滅したときには二つの我があることになる、楽受の我と不苦不楽受の我であり、これは正しくない。もし不苦不楽受が我であるなら、不苦不楽受が滅したときには二つの我があることになる、苦受の我と楽受の我であり、これは誤りである。 

原文:阿难。彼见我者。言受非我。我是受。彼则为非。阿难。彼计我者。作此说。受非我。我非受。受法是我。当语彼言。一切无受。汝云何言有受法。汝是受法耶。对曰非是。是故阿难。彼计我者。言受非我。我非受。受法是我。彼则为非。 

解釈:阿難よ、我見のある人は、受は我ではないが、我こそが受であると言うが、この知見は誤りである。阿難よ、我が存在すると執着する人々はこう言う。受は我ではなく、我も受ではないが、受という法こそが我であると。このような人に対しては、こう言うべきである。一切の法に受はない、なぜあなたは受法があると言うのか。あなたは受法なのか。その人は答えて言う。そうではない。それゆえ阿難よ、我が存在すると執着する人々は、受は我ではなく、我も受ではないが、受法が我であると言うが、彼の見解は誤りである。 

原文:阿难。彼计我者。作是言。受非我。我非受。受法非我。但爱是我者。当语彼言。一切无受。云何有爱。汝是爱耶。对曰非也。是故阿难。彼计我者。言受非我。我非受。受法非我。爱是我者。彼则为非。阿难。齐是为语。齐是为应。齐是为限。齐是为演说。齐是为智观。齐是为众生。 

解釈:阿難よ、我が存在すると執着する人々はこう言う。受は我ではなく、我も受ではなく、受法も我ではないが、愛こそが我であると。このような人に対しては、こう言うべきである。一切の法に受はない、どうして愛があると言えるのか。あなたは愛なのか。相手は答えて言う。そうではない。それゆえ阿難よ、我が存在すると執着する人々は、受は我ではなく、我も受ではなく、受法も我ではないが、愛こそが我であると言うが、彼らの見解は誤りである。阿難よ、このように言うことこそが正語であり、このように言うことこそが法に対応するものであり、このように言うことこそが最も究竟であり、このように言うことこそが正法を演説することであり、このように言うことこそが智慧に基づく観察であり、このように言うことこそが衆生を度することである。

——生如法師の開示
前へ前へ

父子合集経講記(五四)

次へ 次へ

父子合集経講記(五五)

ページトップへ戻る