眼処は究竟空にして、前際と後際も皆不可得なり
もし眼根が空でなければ、常に存在し続け、生も滅もなく、自らを主宰し、その生滅を司る法もないはずである。しかし眼根はこれと正反対である。眼根が生じられ、また自らの意思によらず滅するならば、摂持されなければ即ち滅するものであれば、それは空にして幻の如きものである。眼根は如何にして形成されるか。地の成分、水の成分、火の成分、風の成分が加わり混合され、四大種子が一定の比率で配列結合し、和合して眼根の肉体を成す。業縁が消滅すれば四大種子は分散し、眼根も消滅する。空より来たり空に帰し、自性なくして了不可得なり。
我々は眼根に貪愛や歓喜を起こすべきではない。善し悪しを論ずるも、実は善悪なく、全て虚妄にして空である。故に眼処は究竟空にして、前際後際皆不可得なり。前世の眼根、来世の眼根、現在の眼根と過去の眼根、今日の眼根と昨日の眼根、これら全て不可得なり。昨日は今日にとって前際、明日は今日にとって後際、語るこの瞬間が本際、語り始める前を前際、語り終われば後際となる。このように連なる前際後際も、皆不可得にして空なり。
前世の眼根も不可得にして、究竟的に取り出すことはできず、何処を探しても見出せない。未来に再び造られる眼根も、依然として不可得なり。現在の眼根も究竟的に取り出せず、未だ現れざる法は更に虚妄なり。現在の眼根は念念に生滅し、刹那ごとに変化して、これまた不可得なり。近視・老眼・緑内障等の眼病の出現は、眼根が変化し信頼できないことを示す。健康な正常状態を保つことさえ叶わぬその自性は、確かに了不可得なり。
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