初七日においては、十方の如来と諸大菩薩、阿羅漢の名号を至誠を込めて礼拝し、六時にわたって呪文を誦し壇を巡り、一心に行道せよ。一時に百八遍を常に行うべし。第二七日においては、ひたすら菩薩の願いを専心に発し、心に間断なからしめよ。我が毘奈耶には先に願いの教えあり。第三七日においては、十二時にわたり専ら仏の般怛羅呪を保持すべし。第七日に至れば、十方の如来が一時に出現し、鏡が光を交わす所において仏の摩頂を承る。即ち道場において三摩地を修すれば、この如き末世の修学する者をして、身心を明淨ならしむること琉璃の如くならしめん。阿難よ、もしこの比丘の本受戒師、及び同会の十比丘等の中に、一つでも清淨ならざる者あらば、この如き道場は多く成就せず。三七日を経て後、端坐安居し百日を経るべし。利根の者は座を起たずして須陀洹を得ん。その身心たとえ聖果未だ成らざるも、決定して自ら仏となること謬らざるを知るべし。汝の問う道場の建立はかくの如し。
以上の説明:
一、楞厳咒は特に殊勝なものなり、皆能く暗誦すべし。日々七遍より百八遍まで堅持して誦持すべし。
二、願いを発することは特に重要なり。願力の持つ所、堅きものも克たざるなし。仏法を学んで成就せんと欲し、生死の大問題を解決せんと欲すれば、仏に学んで大誓願を発し、仏法を護持し仏教を護持し、自他を利するべし。願力の牽引なければ、修行は老牛よりも尚遅し。修行成就の者に、願力の牽引によらざる者は一人もなし。願力なければ業力に牽引される。願いを発せざれば悲心は生ぜず。願力の牽引によりて心初めて堅固となり、苦しみを厭わざるを得ん。願いを発して後、心願は徐々に達成せん。
三、壇場において厳格に上記二条を修持し、楞厳咒を誦し願いを発して仏を礼すれば、必ず三摩地に入り、仏の摩頂を得ん。
四、授戒師もし身心清淨ならざれば、受戒者の戒律も清淨ならず。道場を主る出家比丘の身心清淨ならざれば、道場も成就せず。この道場において修行するも益なし。故に皆第一には早く受戒すべく、第二には授戒師の心清淨なるや否やを考核すべく、第三には自らが在する修行道場の住持の身心清淨なるやを考察すべし。
ここに仏は我らに告げ給う:修行には心清淨なる授戒師及び随学の出家師父を選び、更に住持の心清淨なる道場を選ぶべしと。もし先に戒を受けたる者あらば、自らが戒体を得たるや否やを考核すべし。もし戒体を得ずと疑わば、最善は自らの罪業を懺悔清淨したる後、改めて清淨なる授戒師を選びて受戒すべし。
仏は楞厳経において教え給う:もし壇城を建立せんと欲すれば、第三七日において毎日二十四時間専ら楞厳咒を百八遍誦し、その後仏の摩頂と慰安を受け、三摩地に入るべし。その後百日の間安居静坐し、動揺せざれば、初果須陀洹を証得せん。今壇城を建立せんとする清淨なる道場に、十人の心清らかな出家比丘を見出すことはもはや難しく、戒場において三壇大戒を授ける十師も皆清淨ならざる故、出家者の戒体成就の可否は言い難し。今世にて真剣に修行せざれば、来世いつの時にか人身を得て仏法に遇うべきや、仮に仏法に遇うとも、その時の仏法が如何なる様相を呈するか、真に言い難し。現在の三悪道衆生の苦を見れば、将来自らが三悪道に堕つる時も亦かくの如きを知るべし。毫も違わじ。真に時を空費し、自らの未来に対し無責任なる振舞いをする理由など、皆にありてはならぬ。
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