衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2021年01月30日    土曜日     第1 回の開示 合計3044回の開示

俱生我見と我慢の違い

或る者は我慢と俱生我見の区別を理解せず、我慢を俱生我見と混同し、四果に至って初めて俱生我見を断じると説きますが、この誤解は甚だ大きく、真に我見を断ずることができなくなる原因となります。俱生我見とは意根の我見であり、二種の我見の一つで、初果の時点で断除すべきものです。これを断たなければ初果の者とは言えず、我見を断じた人とは認められません。我慢は意根の最も深重なる煩悩であり、意根の俱生我執に属するもので、俱生我見ではありません。俱生我執は四果において初めて断じ得るため、四果阿羅漢のみが我慢の現行煩悩を有しないのです。

我慢と俱生我執は我見を依り所として存在します。我見を断除した後、我慢と俱生我執は漸次薄れ、最終的に断尽されます。我見が断尽された時、我慢も消滅するため、俱生我見と我慢を同列に論じることはできず、その概念を混同してはなりません。

無意識の中に「我」が存在し、思索や分析・比較を要しない状態、これが我慢であり、意根の認知です。あたかも骨髄に染み込んだものの如く、意根の我慢は気付き難く、ましてや抜き難いものです。卑慢・高慢・過慢など、心に「我」が存在する限り必ず我慢が生じます。全ての人は「我」を自覚し、あるいは傲慢に、あるいは卑下しますが、これらは皆我見を基盤とするもので、極めて断じ難く根深いものです。例えば嬰児が抱かれようとする他人を見て不機嫌に顔を背ける行為、これこそ生来の我慢であり、意根に伴って存在するものです。意識による比較を待たず、意識の有無に関わらず、意根には生来の我見と我慢が具わっています。自己顕示欲が強く目立ちたがる者、誤りを指摘されると不機嫌になる者、常に自己を優れたものと考える者、他人と比較を好む者、凡て自我の認知を有する者は皆我慢を抱えています。

意根の俱生我見は五蘊を以て我と見做す根深き我見であり、この心理は極めて察知し難く隠微です。故に多くの者は俱生我見を降伏・断除できず、単に意識の分別我見を断ずることを以て我見を断じ初果を証したと言います。しかし意根の俱生我見を断たねば、意識の分別我見が仮に断じられたとしても、意根を依り所として絶え間なく我見が生起し、無自覚の内に随所で現れ、甚だ厄介です。俱生我見は意識の我見ではないため、感覚として表れず、感覚は比較的表面的なもので意識の覚知、即ち意識の分別我見に属します。分別によって生じ、分別なき時は存在せず、意根の我見より発見し易く降伏も容易ですが、降伏後も再び現れ、断尽されません。意識の俱有依たる意根が我見を断たねば、意根に随転する意識が如何にして真に我見を断じ得ましょうか。これでは我見が随所に現れるのを免れず、常に抑制を要し、往々にして抑制も叶わず、命終の時は当然ながら意根の俱生我見と煩悩に随って生死の苦海を流転し、三悪道を免れません。

三結を断じた初果の者にも我慢は存在し、貪瞋痴が既に弱化した二果の者でさえ依然として我慢の煩悩心所が存続します。三果に至って初めて我慢を降伏させ、或いは一部を断除しますが、未だ断尽せず、断尽すれば四果となります。意根の俱生我執は俱生我見より更に断じ難く、次第から言えば、先ず俱生我見と分別我見を断じて初果を証し、次いで更に二種の我見を深化観行し、貪瞋痴を弱化させて二果を証し、更に二種の我見を深化観行し初禅定を修め、煩悩を断除して三果を証します。意根の俱生我見が徹底的に断尽されれば、俱生我執も亦徹底的に断尽され、我慢は消失して四果阿羅漢を証得するのです。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

瑜伽師地論 第十巻(十二因縁)

次の記事 次の記事

瑜伽師地論 第十巻(十二因縁)