衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年02月05日    金曜日     第1開示 合計3063開示

有漏福とは何か?無漏福とは何か?

福は有漏福と無漏福に分けられます。有漏福では解脱の彼岸に到達することはできず、無漏福でこそ修行者を解脱の彼岸へと送り届けることができます。世間法に求めるものがあって修める福は有漏福であり、世間法の功利的な心を帯びて修める福は有漏福であり、我という心があって修める福は有漏の福であり、世俗法の見返りを得るために修める福は有漏福です。無漏福とは、何も求めず何も得ようとしない心で修める福であり、功利心なしに修める福であり、自己のためでもなく世間の見返りのためでもなく修める福です。 

有漏福は使い果たすことができ、世俗法の中で享受すれば消えてしまいますので、絶えず福を修めてこそ享受すべき福があることになります。無漏福は享受し尽くすことができず、いったん修めば、成仏の時まで保たれます。なぜなら無漏福は功徳と結びついており、功徳が失われなければ福も失われないからです。有漏福は世間の煩悩と相应し、無漏福は成仏して衆生を度する清浄な大願と相应します。願が大きいほど福も大きく、発願すれば福が生じます。有漏福は人の我見と我執を強化しますが、無漏福は逆に、修行者が我見を断除し、我見を消し去り、さまざまな証量と智慧を高めることを支えてくれます。 

仏道を学び始めた人はみな、有漏の善と有漏福から修め始めます。心がますます空になり、ますます無為になり、ますます何も求めなくなり、功が積もれば自然に成るのです。最後にようやく無漏の善と無漏福を修めることができます。これが修行の過程であり、学仏の最初の段階では必ずまず有漏の善と福を修めなければなりません。衆生の心の中には悪不善法があるので、善法をもってこれに対治しなければならないからです。相当な程度まで修めると、心が初めて空と相应し、心の中の悪不善法がすっかり消え去ります。このときにはもう善法に執着してはなりません。善法の心があれば空ではなく、道とは相应しないからです。 

私たちは今、みな四正勤を懸命に学ぶ段階にあり、悪を断ち善を修めることに努めています。悪をすべて断除し終えた後には、善もわざわざ修める必要はなく、心の中で善悪のいずれにも執着しないことこそが、真の無漏なのです。四正勤とは、未だ生ぜざる善は生ぜしめ、既に生じた善は増長せしめ、未だ生ぜざる悪は生ぜしめず、既に生じた悪は断除せしめることです。この段階は誰もが経験しなければならないものであり、修行が精勤であるほど、四正勤をより速く修め終え、無漏を証得することができるのです。

——生如法師の開示
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