縁によって集まった法は真実の法にあらず
業の転変には作者も受者も存在しないことを了知せよ。業の転変とは即ち我々の身心の行為造作であり、身口意の行いの運行に、作る者はいない。例えば今私が法を説き言葉を発しているが、実はこれを行う者は一人もいない。誰がこれを為し言葉を発しているのか。私だとおっしゃるが、私とは何か。この身体が私か、それとも識心が私か。これらは全て仮相である。色身と識心が組み合わさって形成された五蘊は更なる仮相であり、真実の私は存在しない。五蘊は仮相であり、五蘊が言葉を発する現象は更に不実である。言葉を発するこの人は私ではなく、組み合わされた集合体である。組み合わされたものであれば即ち因縁によって集まったものであり、縁が滅すれば集合体は分散して消滅する。現前の組み合わせも実有ではない。
例えば軍隊は歩兵・騎兵・諸兵種から成り、仮に部隊と名付ける。部隊を編成して出陣し勝利した時、国王は「我が部隊は何と勇敢で、何と勇猛無比で、何と威武に満ちていることか」と言う。しかし「我が部隊」という実体があるのか。部隊は複数の兵種から成り、単一兵種は部隊と呼ばず、組み合わされても尚、部隊とは呼べない。真実の部隊という法の存在はなく、部隊は幻化された仮の集合体である。真実ではなく、縁によって集まった法は真実の法ではない。縁が散れば集合体は分散する。集散自在の集合体は虚妄不実である。二つ以上が集まって一体と呼ばれるが、個々を離れれば一体とは言えない。甲は甲、乙は乙、実は一体ではなく仮の集合体である。仮の集合体は真実ではない。
この五蘊も組み合わされたものである。色身と幾種かの見聞覚知心が組み合わされ、集合して初めて感受が生じ、想いが起こり、了別が生まれ、分別が起こり、行蘊が現れ、往来する身口意の行いが生ずる。識心が滅すれば五蘊は組み合わされず、身体が滅しても五蘊は組み合わされない。故に組み合わされた仮の現象は真実ではない。実は真実の五蘊たる私は存在せず、人は幾つかの因縁が寄り集まった仮相である。因縁が滅すれば散じ去る。例えばこの椅子は釘・木材・人力が組み合わされたもの。縁が尽きれば椅子は散じて木材となり、木材もやがて灰となり、最後には灰も消える。因縁によって組み合わされたものは皆このように不実である。故に執着すべからず。
小乗法では世俗法は全て因縁所生であり、悉く仮法であって真実ではないと説く。因縁によって組み合わされたものは全て仮法であり、生滅虚妄である。大乗法の立場から見れば、何故因縁の組み合わせが存在するのか。皆如来蔵という法があるが故である。如来蔵を離れればこの椅子も組み合わされない。私が人力でこの椅子を釘打ちする時、私の如来蔵が作用しなければこの椅子を作り得ない。如来蔵がなければ木材さえ存在しない。樹木は単独で生長できず、全て如来蔵の功能作用による。万物の生長は如来蔵を離れられない。
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