衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年12月07日    金曜日     第2開示 合計1082開示

我見を断った後にも恐怖心は残るのでしょうか

我見を断った後には一定の解脱の功徳と受用があり、この解脱の功徳の受用は各人の証量に応じて一定の差があります。いわゆる解脱の功徳とは、色身や五蘊に対する心理的な感受や考え方の執着が軽減され、薄らいでいくことで、多くの物事にこだわらなくなり、あまり気にしなくなることです。特に禅定がある状態では執着がさらに軽く、薄くなります。これも我見を断つ智慧と禅定の程度によって異なり、人それぞれです。

しかし重大な出来事に遭遇するとやはり恐怖を感じますが、後で考えてみるとそれほど怖くはなくなります。三果や四果の聖者は非常に軽微です。しかし全く恐怖を感じないことは不可能で、ちょうど四果の阿羅漢が仏陀のそばにいて、酔った象が突進してきた場合、彼らも怖がって逃げるように、我執を断った四果の人でも酔象を恐れるのです。なぜでしょうか?彼らは如来蔵を証得しておらず、依然として五蘊の身を実体あるものと考え、苦も実在すると認識しているからです。ただし、これらが絶えず生滅変化する様子を把握できず、五蘊が虚妄であり如来蔵の幻化であるという理を証得していないため、彼らには依然として恐怖心があるのです。もし倶解脱の阿羅漢であれば、深甚な禅定によって支えられているため恐怖心はなく、比較的安らかで自在です。

もし八地の菩薩であれば、微塵ほどの恐怖心も存在しません。四地の菩薩ならおそらく恐怖心はないでしょう。四地以上の菩薩は我執を断つだけでなく、一部の法執も断っており、深甚な如来蔵を証得している上に四禅八定を得て、一切の法が幻化の相であり実体がなく、五蘊の身もすべて空幻であり、全てが如来蔵であることを証得しています。小乗の阿羅漢は如来蔵を証得していないため、彼らは五蘊がこの世において依然として実体あるものだと考え、そのために涅槃に入って苦から逃れようとするのです。小乗の証果と大乗の証果は次元において大きな差があり、小乗で証得する法は不究竟であり、大乗の法こそが根本の心の源に徹し、究竟の法なのです。したがって、我見を断った初果の人でも、ある種の比較的大きな出来事については依然として恐怖を感じることがあります。これは、この執着の身を完全に断ち切ることができず、なお法執の問題が残っているためです。

——生如法師の開示
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