多くの人々は日々、仏法の教えを懸命に学び修行していますが、時折仏・法・僧の三宝を誹謗する言説に賛同してしまうことがあります。この一つの賛同が、積み重ねた功徳の大半を損ない、どれほど精進しても進歩が乏しくなる原因となります。無明は修行を著しく妨げるものであり、この無明を懺悔する方法を講じなければ、最期に善業と悪業どちらが大きいかは断言できません。なぜこれほど多くの人々が自らの無明の深さに気付かず、自らが智慧を持たない者であることを悟らず、仏法の肝要な部分で無知蒙昧な見解を述べ立てるのでしょうか。このような修行の果てに待つ結果を、どうして深く考えようとしないのでしょう。悪業とは何か。三宝誹謗は悪中の悪であり、これに勝る悪業があろうはずがありません。むしろ殺生などの悪業を犯した方が、その果報はまだ軽いと言えるのです。
悪業を造ることは実に容易く、一言で悪業が成立し、一字で大悪業が成り立ち、表情一つ記号一つで悪業が形成されます。しかし多くの人はこれが不適切な行為であり、いかなる悪果を招くかを理解していません。悪報を受ける時が来ても、その原因を関連付けず、悪果の根源を考察分析せず、ましてや過去の不善なる身口意の行いを懺悔することもありません。多くの人はそもそも、どのような身口意の行為が善であり悪であるかを知らず、概して内心の無明煩悩に従い、不善心所に逆らうことなく、煩悩習気を露わに撒き散らしています。大多数の覚醒度は極めて低く、自らの心の働きに無自覚で、内観する能力も意思もなく、ただひたすら自己に甘え弁解に終始します。このような放任の結果は何か。苦悩と苦痛、障害に満ち、思い通りにならない人生を送り、命終すれば三悪道で大苦を受け、三悪道を脱した後も依然として覚めず、悪循環を繰り返し六道輪転を止むことがないのです。
実は善業を造ることも同様に容易く、一言で善業が成立し、一字で善業が成り立ち、表情一つ記号一つで善業が形成されます。しかし多くの人はこのような善業を軽視し、その習慣を持ち合わせていません。日々、不善心所が善心所を量・質ともに凌駕しているため、誰もが悪業が善業を上回り、たとえ多くの人々が仏を信じ学んだとしても、命終後は依然として三悪道に堕ち、人身を保証されず、三悪道に赴く割合は九割以上、いやそれ以上にも及ぶのです。
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