衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年02月23日    火曜日     第1開示 合計3124開示

禅定の功徳受用

<h2 style="text-indent: 2em;">問:座禅をしていると次第に雑念が少なくなり、意識がますます清明になっていきます。このような内守悠閑(内に守って悠々自適な状態)には何の用があるのでしょうか?このとき法義について思考すると、意識による解悟になりやすく、将来証悟できなくなってしまうのでしょうか?内守悠閑の状態に座り込んだ後、どのように工夫すべきでしょうか?</h2>

答:禅定の功徳受用には多くのものがあります。智慧を増長させ、我見を断じ明心見性することは、凡夫位の大多数の衆生にとって、短時間内における最終的かつ最高の功徳受用ですが、それ以外の功徳受用もあります。たとえば、内心の祥和、身心の舒适安泰(快適と安らかさ)、体質の改善、色身の健康と長寿、煩悩の低減、善心の増加、悪心の減少、行った善業と不善不悪の業の増加、悪業の減少などであり、後世には善道に趣向し、天に昇って福を享受することになります。
禅定に入ったばかりのとき、多くの人は思惟力がなく、仏法を思惟することができず、心は萌芽するような念頭の空定の中にあり、内守悠閑の定と名づけられます。もちろん思惟がなければ悟道はできません。しかし禅定から出た後には、一種の慣性があり、定の状態が持続します。すると身心もまた、定を修めていないときよりも快適で愉悦であり、その心は平時よりも深沈になり、思考力は深まり、浮薄な性質は低下します。身心が愉悦で満ちているため、その心は善にして祥和安寧となり、人に接し物事に応対する際には寛厚仁慈となり、造る悪業は減少します。物事に遭遇したときの思惟が深く徹底し、物事を処理する際には柔和で中道にして偏激になく、人事物理を見通すことが容易になり、自然と智慧を増長し、福德を増長します。この功徳受用は、禅定のない人には比べものになりません。

禅定の中で絶えず自分の思惟力を訓練し、思惟の習慣を養えば、次第に如理に思惟し、如法に思惟観行(vipaśyanā-caryā)して、智慧を高めていくことができます。しかし、このような思惟は必ずしも仏法を解悟できるとは限りません。仏法の脈絡がまだ十分に明晰でないとき、学んだ法義がまだ十分に通暁していないときには、まず意識による思惟が必要であり、仏法の脈絡と綱領を整理し、それによって意根を薫染し、意根に仏法がどのように修行すべきか、どのように工夫すれば仏法を証得できるかを明達させるのです。この基礎が固まって、最後に実証が必要となるときには、禅定が深まっており、未到地定 (anāgamya-samādhi) を満足しているはずです。このときには意根の思量 (manasikāra/manana) を主とし、意識は意根に配合して、思考・分析・推理などの情思意解の活動は少なくし、できるだけ意根自身に参究と考量をさせます。こうして初めて最後の証悟に達することができ、意識による解悟を避けることができます。これが定慧等持の修行の歩みと方法であり、これを会得すれば、熟すれば巧みを生じ、功夫が牢固となり、後世においても意識による解悟という偽の修行様式を避け、仏法の真実の受用を得ることができるのです。

——生如法師の開示
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