問:座禅中に雑念が次第に減り、意識が次第に清明になる場合、内守悠閒を保つことに何の意味があるのでしょうか?この状態で法義を思考すると、意識的解悟に陥り、将来的に証悟できなくなるのでは?内守悠閒の境地に至った後、どのように修行を進めるべきですか?
答:禅定の功徳には多様な効用があります。智慧の増長、我見の断絶、明心見性は凡夫位の大多数の衆生にとって、短期的な最終かつ最高の功徳ですが、他にも内心の平穏、身心の安泰、体質改善、色身の健康長寿、煩悩の減少、善心の増加、悪心の減退、善業及び無記業の増加、悪業の減少などがあり、来世では善道に向かい天界で福を享けることになります。 禅定に入り始めた段階では、多くの者に思惟力がなく仏法を思考できず、心は萌芽的な念頭の空定状態にあり、これを内守悠閒の定と呼びます。当然ながら思惟がなければ悟道は得られません。しかし禅定から出た後、ある種の慣性作用が生じ、定の状態が持続するため、身心は依然として禅定未修者より快適で愉悦に満ち、心は平常時より深沈となり、思考力は深化し、浮ついた性質は減退します。身心の愉悦と充実により、心は善で平穏安泰となり、人接し物に接する際には寛厚仁慈となり、造る悪業は減少します。物事を深徹徹底的に思考し、事柄を柔和且つ中道的に偏りなく処理し、人事物理を見透しやすくなることで、自然に智慧が増長し福徳が積まれます。この功徳の効用は禅定未修者とは比べものになりません。
禅定中に不断に思惟力を訓練し、思惟の習慣を養うことで、次第に如理なる思惟、如法なる思惟観行ができるようになり、智慧が向上します。ただしこの種の思惟が直ちに仏法の解悟に繋がるわけではありません。仏法の脈絡が未だ明瞭でない段階、所学の法義が未だ円通していない時期には、まず意識的思惟によって仏法の脈絡と綱領を整理し、これによって意根を薫染し、意根に仏法修行の要諦と用功の方法を明達させねばなりません。この基礎が固まった後、最終実証の段階に至れば禅定は深化して未到地定を満足し、この時こそ意根の思量を主とし、意識は意根に協力しつつ、思考分析推理などの情思意解活動を控え、極力意根自らに参究考量させることが必要です。これによって初めて最終的な証悟に至り、意識的解悟を回避できるのです。これは定慧等持の修行段階と方法であり、これを体得すれば熟練によって巧みさが生じ、功夫が固まれば来世においても意識的解悟の偽りの修行模式を避け、仏法の真実の受用を得ることができるのです。
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