衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年02月24日    水曜日     第3開示 合計3129開示

初果の特徴と大妄語業罪

<h2 style="text-indent: 2em;">問:須陀洹果は五蘊の身を我・我所とする知見を断除したのですが、これは意根を我とする知見の断除でもあるのでしょうか? </h2>

答:初果が我見を断除するのは、意根と意識の両方が断つのであり、両者がともに五蘊は苦・空・無常・無我であると認めたのです。しかし初果の断我見は徹底しておらず、二果の断我見はさらに深く、それによって貪瞋痴の煩悩が淡薄になります。三果の断我見はさらに深く、それによって貪瞋痴の煩悩を断除できるのです。四果になって初めて我見が徹底的に断除され、それによって我慢・我執が断じ尽くされ、世間法には一丝毫(いっしこう)たりとも染まらず、無余涅槃を取る能力を備えるのです。 

初果にはまだ貪瞋痴があり、貪瞋痴が薄いわけではありませんが、初果の断我見の功徳によって、貪瞋痴の煩悩は効果的に降伏され、凡夫のように貪瞋痴が現行しやすく顕著であるということはありません。初果は修道の過程で、三十七道品をすべて修め終え、八正道を具足しており、心地が正直で善良であり、修行の正道を歩んでいることを示しています。四正勤を修め終えたということは、初果の人の煩悩・悪習が降伏され、容易には現れなくなり、善法がすでに確立されたことを示しています。そして初果の人の善を具足し、断悪修善の功徳によって、初果の人の解脱の功徳受用を具足しているのです。実際に証果していない一部の人が言うように、初果の人は凡夫と同じ貪瞋痴の煩悩を持つ、というのではありません。これは初果の人を重大に誹謗する言動であり、実際には全くそんなことはないのです。 

もし誰かが、凡夫の貪瞋痴の煩悩と同じように重い初果の人に出会ったならば、その人は偽の初果の人、すなわち初果を装う凡夫であると断定できます。今の世間では詐欺の術が横行しており、仏教の中にも詐欺の術が多くあります。一部の人は意図的であり、大多数の人は無意識です。ただ我心が重く、自分をあまりにも持ち上げすぎて、目を内向けて自分を見ようとせず、自分を点検し反観することができず、人より出ようとし、人と優劣を争うことを好むため、結果としてかえって自分を害しているのです。命終の後、大妄語のゆえに自動的に地獄に投げ込まれます。 

なぜ大妄語業の罪はこれほど重いのでしょうか?『楞厳経』の中で仏が説かれたように、例えば貧しい人が帝王と偽って称すれば、王に捕らえられ、斬首されて衆に示され、全家が誅滅されるのです。仏教において凡夫が聖人を装うことは、世間法において帝王を装うよりも罪業が大きいのです。聖人は帝王よりはるかに優れており、聖人を装うことは仏教を乱し、視聴を混淆し、衆生に聖凡の区別をつけられなくさせ、仏教の修証の次第を乱してしまいます。聖人を装うことは波羅夷罪、すなわち断頭罪であり、死後には地獄に入って罰を受け、罪を贖わなければなりません。

——生如法師の開示
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