衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
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日常法話

2021年03月01日    月曜日     第1開示 合計3142開示

真心を守ることもまた虚妄法

<h2 style="text-indent: 2em;">評:真心を凝らして守り、妄念を生ぜず、我所心を滅すれば、涅槃の法が顕れる。</h2>

修道の過程において真心を証得したならば、最初は心を静めるために、真心を凝らして守り、真心を帰依の対象とすることができます。修道の功が深まるにつれて、真心を守ることもまた虚妄の法であり、余計なことであると分かってきます。守るという心行があれば、それは妄心の心行であり、妄念を生んだことになるのです。なぜ真心を守るのか。それはやはり真心を我および我の所有物と見なしているからこそ守るのであり、それならば我所の心は滅しておらず、心はまだ十分に空ではありません。このときの心は以前より清静 (praśama) になっているように見え、真心のように他の念がなく、これは禅定の境界であり、真心に念のない境界に類するものと言うこともでき、涅槃の真心が顕れたと言っても、通じなくはないのですが、やや無理があります。なぜなら涅槃の真心はいついかなる時も顕現しているのであり、真心を証悟した人なら誰でも知っていることだからです。

凝然として心を守ることが許されるのだと言うなら、この守心とは、妄心に虚妄な造作をさせず、さらには貪瞋痴の業を造作させず、清浄 (viśuddha/pariśuddha) に回帰させる、あるいは真心の自性に回帰させるという意味でしょう。真心を守るという言い方は検討の余地があります。なぜなら真心は守る必要がなく、証悟した人が真心を守るのは余計なことであり、煩悩と執著を増やすだけで、牢関を過ぎることができません。証悟していない人は守ろうとしても神様を見つけられず、どうやって守ることができるでしょうか。しかし「守」という一字があるということは、念があることを示しています。真心を守るにせよ妄心を守るにせよ、守る以上は妄念なのです。このときは意識の妄念が生じていないだけであり、意根には絶対に念があります。念がなくなったとき、心は空になり、何も守らず、守ることもできず、守るという心行もなくなります。念があり心があるときは、涅槃の真心と妄心の両方が存在しており、どちらが顕現した涅槃の心なのでしょうか。守るという心行がある以上、心行は滅せず、守護しているものは我所であり、何を守護しようとも、それは我所の守護であり、我所の心はまったく滅していないのです。

禅宗と唯識の境界は比べものになりません。禅宗の段階では心はまだ十分に空ではなく、禅宗の第三関を過ぎたとしても、心は唯識の段階まで修めた人のように空にはなっていません。一つでも心行が空でなければ、禅宗の第三関は通過できず、第三関にすら到達できません。心が空になってこそ有余涅槃 (sopadhiśeṣa-nirvāṇa) を証得でき、禅宗の第三関である生死の牢関を過ぎる力を得られるのです。真心を守ろうとすれば、真心に繋縛され、なお生死の業があり、涅槃できません。守ることはすなわち生死の業であり、守ることは余計なことであり、心は寂静ではありません。四禅は捨念清浄と呼ばれます。念を捨ててこそ清浄 (viśuddha/pariśuddha) であり、念を捨てれば守ることもなく、心は空で守ることなく住することもありません。守りがあれば無想定に入ることもできず、まして滅尽定に入ることはできません。なぜ滅尽定に入れないのか。意根にはなお受と想があるからであり、守ることはすなわち想なのです。無想定の中にも意識の守りはなく、意識は起用できません。守ることは、制心一処の修定に類しており、制するとは、置くことであり、対治することであり、動作があり、運行があるのです。

私たちが今語っているのは最終的な修行の結果であって、修行の過程のことではありません。修行の過程では、どうすべきかをどうすればよく、さまざまな方法や手段を用いることができ、それらはすべて用功に必要なものであり、避けられないものでもあります。しかし最後の結果においては、必ず心行は寂滅していなければなりません。たとえば戒を守ることが、もはや守る必要のない程度に達してこそ、戒において自在であり、戒を踰えることなく、それが完全に意根の習慣・習気となり、心行が天然にそのようになり、思考や監督・規範を要せず、自然のままの心行が戒律に適うようになるのです。

——生如法師の開示
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