衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年10月05日    金曜日     第3開示 合計879開示

直観と参禅の関係

参禅が究極の参究状態に至ると、それは言語文字の相を離れた「尋伺(じんじ)」の状態となり、つまり意根(いこん)の深層に達し、意根が参究活動に参与します。直感とはまさに意根の機能作用であり、意根の覚性(かくしょう)であり、意根の知覚です。言語ではなかなか説明し難く、それは意根が言語と相応しないためです。意根の直感作用は非常に大きく、また比較的正確であり、多くの人々が自身の直感を信頼しています。

心の中の全ての問題は法塵(ほうじん)に属します。如来蔵(にょらいぞう)が法塵を顕現する時、意根がまず接触して先に知り、その後覚知性が生じます。ある法塵については意根が大まかな状況を理解できますが、詳細や具体性に欠けます。その後、意根が意識を導いて再び法塵に接触させ、問題を注意深く観察し分析します。時には意識は意根の覚知した方向に沿って思考分析を始め、最終的に問題を明らかにします。往々にして、意識が意根の直感の方向に沿って思考する時、問題解決は迅速かつ比較的正確に行われます。

参禅と参究は、意識と意根が共同で協力し、一つの問題を明らかにするものです。意識は意根の直感作用の協力を必要とし、意根は意識の論理的思考と分析によるデータを必要とします。意根はこれらのデータを用い、さらに知覚と検証を加えることで、問題を確定します。

あの直感的知覚を持ち続けること、それがすなわち禅定(ぜんじょう)であると同時に参究活動であり、意根の深層に至っています。多くの人々がこの経験を持っていますが、理解せず、また活用することもできません。深く参究する際には意識の思考分析を用いず、意根がひそかに深く思量しています。それは表現することができず、文字言語とは相応しません。意識がわずかに協力し、意根を主体とする状態、それが参究の状態です。意識を主体とするのは思考分析の状態であり、参究の状態よりも次元が浅いものです。これは参禅の前行(ぜんぎょう)としての方便(ほうべん)であり、その後にはじめて参究の状態が現れます。

——生如法師の開示
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