一切の法の証得は、すべて現観の結果であるべきであり、想像や分析から導き出された結論ではありません。現観とは何を指すのでしょうか。現観とは現量観行、現前観行であり、六根が六塵に対応するまさにその時、眼前に現れる諸法の生起・運行・生滅変化を観察体験することです。意識が現量による観察であるかどうか、思考から導かれた結論が事実かどうか、意根は絶えず判断を下しますが、時には正しく判断し、時には誤って判断します。なぜなら意根もまた自らの習気を持ち、さらに智慧が不足しているため、誤った判断を下しやすいからです。意根は往々にして意識の現量観察と十分な思考分析が理路整然としている場合にのみ、その智慧を啓発され、思惟観行の結果を確認することができ、意識の非量による想像や推論をあまり認めようとしません。意識の現量観察こそが証拠であり、証拠が確固たるものとなった時、意根は初めて賛同の決断を下すのです。
我々が自らを説得できないことが多いのはなぜでしょうか。それは意識に現量観察がなく、証拠が欠如しているか不十分なため、意根が意識の分析思考の合理性と正確性を認識できず、意識に説得されず、意識の分析結果に基づいて決定を下せないからです。このため意識は証拠が確固たるものとなり、意根が認めるまで絶えず再思考・分析・推論を続けなければなりません。
もちろんここには意識による邪悪で誤った現量観察、実際には非量であるものが含まれますが、それも意根に認められる場合があります。なぜならそれは意根の無明と煩悩に符合するため、意根が進んで賛同することを望むからです。これが修行を積んでいない人の状態です。意識が意根に邪な教導を行った時、意根は真相を知らされず、当然のことと思って非量を現量とし、想像を事実とみなし、実際はそうではないにもかかわらず、時には過去の流れに従い、やむを得ず同意してしまうこともあります。
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