参禅には色界の初禅定、あるいは初禅に至る前の未到地定が必要であり、それによって真実の如来蔵を参究し、悟りを得て如来蔵を見出すことができます。これは欲界第六層天の定に相当し、定が深すぎても浅すぎても、禅の本体を究めて如来蔵を見出すことは困難です。定がさらに深まると二禅に入り、目は色を見ず、耳は声を聞かず、五識が消えて意根と意識のみが残るため、身口意の行いにおける真妄和合の上で如来蔵を見出すことができません。深い禅定の中で如来蔵を探求することは容易ではなく、その際の意識は微弱で鈍り、如来蔵を見分けるのが困難です。さらに身行と口行が消失し、微細な意行のみが残るため、意識は意行の上に如来蔵を見いだせず、悟りを得るのは至難です。如来蔵を見出すのは、身口意の行いが現起するまさにその瞬間、特に身行と口行の作働する時に、真妄が和合する中で初めて可能となります。
意識が微弱で意行が少ない時、如来蔵を見出すのは困難であり、極めて優れた根器でなければ、深い定中で明心し悟りを開くことは期待できません。定が浅すぎるか全くない状態では、意識は散乱し、心は粗雑で、智慧を開いて真実を悟ることはできません。未到地定や初禅定の中間状態では、意識が散乱せず集中力を保ち、一心不乱の境地に達することができます。このような細やかな思惟状態こそ、智慧を開くのに適しています。
悟りの達成には、意識を一処に制する力と専心一意の集中力を欠くことはできません。したがって禅による悟りは、定が深すぎる状態でも浅すぎる状態でも得られません。心を一処に凝らす禅定の修行を成就した後も、その「一処」が何処であるかを知る必要があります。この時、参禅の方向性と着手処を明確に把握しなければ、依然として悟りを得ることはできません。何を悟るのか、悟りの目標が何であるかを知らなければ、開悟への道は閉ざされたままです。
明心の後、智慧が開けば、如来蔵が如何に五蘊と七識と協働するか、身口意の行いが如何に形成されるかを理解し、如来蔵の性質をある程度観察できるようになります。さらに、一切の事象が生起する因縁をも知るに至ります。この段階で深甚な禅定を修得していなければ、神通力を得ることも、世俗の秘事を知ることも不可能です。悟りの境界と禅定の境界は異なり、混同してはなりません。一切を照覧するのは神通禅定の境地であり、悟りとは無縁です。虚空が砕け大地が平らになるのは禅定の境界であって、悟りの智慧の境界とは別次元の事柄です。
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