意識が座禅を始めるとすぐに定に入ろうとするが、長く座ってもなかなか定まらず、もだえ苦しむ。意根を繋ぎ留めて方々に奔走させないようにして初めて、意識は次第に定まってくる。いかにして意識が意根を繋ぎ止めるのか。
意識が禅定を修めようと強引に心を一処に制すれば、意根の乱れ攀縁に対抗できる。時が経つにつれ、意根は乱れ攀縁しても無駄だと悟り、六識が従順に従わなくなるので、意根は徐々に定まってくる。この時こそ意識は真の禅定を得るのである。
意識の分別作用は非常に強く、心が散乱する様々な過ちを知り、禅定を修めたいという欲求が生じる。この時、強引に心を一処に制することで意根を繋ぎ止め、意根を徐々に従順に調伏させることができる。意根が先に清浄にならなければ、意識は真に定まることができない。しかし意根を清浄にするには、まず意識による薫染と心を一処に制する力が必要で、この二者は相互に補完し合う。どちらが欠けても心は定まらない。
意根という牛が意識によって徐々に調伏され、むやみに草を食わず他人の苗を踏み荒らさなくなって初めて、意識は安住できる。意識は意根の牛の背に乗った童子のようなものである。意識という童子が杏花村を指し示せば、意根の牛は童子を乗せてゆっくりと杏花村へ向かう。仏道修行とはこのようなものである。意識が意根を調伏するのは、意根に正しい道を歩ませるためである。意識は意根の牛の背から自ら降りて単独で歩むことができず、目的地に至るには意根に頼らねばならないからである。
解脱般若唯識七群(238324425)へようこそ。
16
+1