衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年09月27日    木曜日     第1 回の開示 合計852回の開示

意根の薫修を成功させる方法

意根を薫修することは、意根が正しく真実で法にかなった道理を認めさせることにあります。この薫修の過程は、数学の証明問題を解くようなものです。一つの問題の原理を絶えず分析し簡略化する過程こそ、意根に証拠を示し、意根を薫陶し、意根を明らかにする過程です。証拠が確かであれば、意根は納得し、最終的にこの道理を証得し、命題の正当性を承認します。これは既知の条件から出発し、既知の定理を組み合わせ、厳密な思考推論を加えて、最後に揺るぎない結論を得ることに似ており、これを「証」と呼びます。この過程が求証の過程であり、証は求証とも呼ばれます。求とは推求する意識の働きであり、その後ろには意根の支持と協力があります。証とは証得すること、理解し明らかにすることです。

現在の問題は、五蘊十八界がすべて空であり無我であるという結論を知りながら、意根が理解せず承認しないため、これを証明する方法を考えねばならない点にあります。一分を証明するごとに、意根は一分ずつ調伏され清浄となり、一分の受用を得て、大道に一歩近づきます。修行の道理はここにあり、仏陀が私たちに真理という結論を与えてくださったので、私たちはその結論と真理の正当性を証明する方法を考え、自ら真理を獲得し、大智慧を得て大解脱を成就するのです。

修行において身心に変化が生じない場合、意識が証拠を意根に示しておらず、意根が承認していないことを示します。意根が身心に執着するため、身心は解脱を得られません。したがって、修行の証明過程が効果的かどうか、証拠が充分かどうかは、身心に変化があるかどうか、煩悩の境界に遭遇した際に突破できるかどうか、内心がさらに清浄になったかどうか、智慧の認知を得たかどうかによって判断されます。これらがなければ、証明が不十分であり、修行は成功せず、自らが掌握しているのは理論であって実証ではありません。我見を断じたかどうか、明心見性したかどうかを検証するには、身心世界の転換が一つの基準となり、解悟か証悟かというこの条項も基準として用いられます。

——生如法師の開示
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