仏道を修行するとは、意根に一切の法が我ならざることを悟らせることにあります。一旦その全てを悟りきれば、悟りの境地に至り、もはや修行する必要はありません。一部分を悟れば一部分の解脱を得、全てを悟れば完全かつ徹底的な解脱を得ます。我あることは業障であり、無明であります。我あるが故に様々な障りが生じるのです。無我であれば、もはや何ものも遮るものはありません。
故に我々は常に我を前面に押し出し、自分がいかに偉大で、いかに聡明で、いかに智慧に満ち、皆を超えているかを示そうとしてはなりません。このような我慢は甚だしく、完全に自らの道業を遮障し、進歩どころか退歩さえ招きます。我慢のために仏道から退転し、善法の利益を失った人々を多く見てきましたが、誠に賢明とは言えません。
13
+1