意根と如来蔵の存在には前後がなく、無始劫以前から同時に存在しており、法爾如是であり、道理を論ずる余地はありません。無始劫以前、末那識の無明により実相を明らかにせず、心を起こして外に攀縁したため、五蘊の世界が生じ、一切の法が次第に生起しました。これにより是非の紛擾が止まず、苦悩が絶え間なく続くのです。修行とは末那識に一切の法が我ならざることを認めさせ、意識が一切の法が我ならざることを観行思惟することであり、大小乗の教理を共に修学し、学び通達した後、初めて一切の法が我ならざることを証得できます。全ての修行はこのための基礎を築くものです。故に我執が強ければ強いほど解脱を得られず、成仏から遠ざかります。末那識の我性を降伏させることは、任重くして道遠しと言えるでしょう。
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