あらゆる側面、あらゆる角度から見て、意根こそが衆生が真に依り所とする仮の我であり、最も主要な我である。この我は常に五蘊身を我とし、六識の機能作用を我とし、第八識の機能作用を我としてきた。すべての功徳作用をあたかも自らの功徳作用であるかの如く考え、一切法の作用をあたかも自らの作用であるかの如く認識してきたのである。
意識もまた仮の我であり、明らかな見聞覚知の作用を有する。衆生は皆、意識の見聞覚知を主とし、意識の行為造作を主とする。意識に見聞覚知がない時には「私に見聞覚知がなくなった」と言い、意識に行為造作がない時には「私は話せず考えられない」と言う。この衆生たる意根は、意識の見聞覚知と行為造作に依存して初めて自らの目的と意志を達成し得る。意識及び意識の行為造作が存在しない時、意根は六塵の中で何らかの作為をなすことができず、五蘊身の表面的な機能作用も消失する。これは意根の本意ではないことである。故に、禅定を修めて六識の造作を減じ或いは造作を止めようとする時、意根は当初耐え難く感じ、禅定の修行は非常に困難となる。意根は常に抵抗しようともがくのである。
他方において、意識の見聞覚知と行為造作は全て意根が支配し主導する結果である。二つの識(意根と意識)は一は顕れ一は隠れて相互に協調し合い、ほとんど全ての人がこれらの活動を意識単独の活動であると看做している。意根の隠微な作用を微塵も観察できず、意根の功徳を埋没させ、意根がこれらの活動の主宰者であることを知らず、意根こそが主人であり衆生の真の仮我であることを悟らない。意根の問題を解決すれば全ての問題が解決するのである。
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