衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2018年09月24日    月曜日     第1 回の開示 合計846回の開示

意根の内観力

意根が自らを内省できるのか、それともできないのか。その意識に智慧がなければ観察することもできず、意根が何をし、今何をしているのか判断することもできない。意識に智慧がない時は全く分からない。だから多くの人々が自らの判断力を盲信するのは、全く道理に合わない。

無始劫以来、我々の如来蔵が五陰世界に対して数多くのことをなしてきたが、我々の意識は無知であり、全く気づいていない。その無知故に如来蔵の存在とその功徳を否定してしまう。意識が知らないからといって、それが存在しないわけではない。同様に、無明によって意根の働きを観察できないからといって、意根にその機能作用がなく、あれこれ働き得ないということにはならない。

眠っている時、意識は自分が眠っていることを知らない。なぜなら眠りには意識がないからだ。しかし意根は眠っていることを知っているのか?意根は絶対に自分が眠っていることを知っている。だから意根は五陰身に活動させまいとする。もし意根が眠っていることを知らなければ、何でもかんでも造作しようとするだろう。しかし意根は眠っていることを知り、夜も知っている。だから六塵境界について細かく知ろうとせず、六識は慎ましく一つも現れず、身体もじっと動かない。意根は自分が眠っていることを知っている。つまり意根には内省力がある。ただ意識が意根を観察できないため、人は意根が眠りを知らず内省力がないと言うのである。熟睡時、意識が知らないからといって意根が知らないわけではない。これは依然として二つの識を混同し、意識の知・不知をもって意根の知・不知としていることを示している。

同様に、昏迷状態でも意根は自分が昏迷していることを確かに知っている。だから清醒の縁が現れると、必死に目覚めようと奮闘し、活動しようとする。禅定に入る時も意根は入定を知り、死ぬ時も死を知る。植物状態でも意根は同様に知っている。これらの特殊な状態において、その心の働きと表現は平常時とは異なる。故に結論がある:無知なる者だけが、意根は何も知らず、何もせず、何もできないと言うのである。もし意根が何ものでもないなら、あなた自身は何者か?同様に何ものでもない!なぜなら、あなたこそが意根なのだから!

——生如法師の開示
前の記事前の記事

衆生の己れへの盲信

次の記事 次の記事

衆生の仮我

ページのトップへ戻る