楞厳経において畢陵伽婆蹉尊者は、体に毒刺を受けた際、念を摂するや間もなく身心が忽然と空じ、無生忍を証得された。この時尊者が意識の心念を確実に収摂し、疑情以外の法に縁せず、ましてや身体にも縁せず、身体の存在を知覚しなかったことは明らかである。意根の心念もまた収摂されておられた。さもなければ意識は収摂できず、必ずや意根の攀縁に従ったであろう。意根が収摂されて他の法に縁せず、身体と識心が共に空じて存在しなくなった時、これは単に禅定における無ではなく、思想観念上の空をも証得し、身心が我ならざることを悟り、証果に至ったのである。而して身心を収摂するが即ち禅定なり、その後更に深き禅定が現前し、身心無我の智慧が顕現した。
禅定無くして真の智慧が生ずるや否や。決して有り得ぬことなり。仮に所謂智慧あるも、それは乾慧に過ぎず、知解宗徒の域を出ぬ。今広く神会和尚の如き知解宗徒が存在するも、これを教化し得るや否や測り難し。六祖の時代、神会和尚を誡めたことは即ち現代人を誡むるに等しい。然るに今の人々は未だ覚ることなく、法を学ぶこと全て意識の情思意解に止まり、実証する道を得ず。
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