唯識の修証において、意根が核心であります。如来蔵は誰の指導も必要とせず突然に変化するものではなく、ただ意根に心を用いるのみでございます。意根を改めれば人を改め、凡夫より果地仏へと至ります。また意根を改めてこそ一切法を改めることができるのでございます。
全ての無明は意根にあり、意根の無明を破れば仏と成り、意根を改めれば種子を改め、種子が改まれば仏と成ります。意識の無明は全てこの意根より来たり、意根に依って初めて意識と意識の無明が生じます。意識とその無明は断じ易く、決して難事ではございません。難事はただ意根に在り。故に意根の心所は意識の心所法に比べて少なからず、ほぼ同程度であるべきでございます。禅定力と観察力が甚だ不足すれば、意根を証得できず、ましてや意根の心所法の運行を観察すること叶わず、意根が如何なる法における運行状態も知らず証せず、これにより安易に意根の様々な心行を否認し、敢えて意識の心行であると説くのでございます。
意根が法を証さなければ無明を破ることはできず、意識の無明を破っても何ら変わることがございません。今考えるに、意識に如何なる工夫を凝らしても無益であり、一切法の修証は必ず意根に触れて初めて根本問題を解決できるのでございます。この理路を明らかに理解すれば、仏法の修証について申し述べるべき言葉も無くなることでありましょう。
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