われわれが座禅によって禅定を修めてもなぜ常に入定できず、なぜ定力が浅いのでしょうか。それは意根が休むことを肯んぜず、攀縁が絶え間ないからです。心が何もかも気にかけ、手放すことができません。これが無明であり、心が本当に外界が存在し、人や事物が実在すると錯覚しているため、内なる心が解き放たれないのです。座禅時に意根が常に方々に攀縁し、様々な事柄を生み出せば、意識心はそれらの事柄を弁別せざるを得ず、心は安住できず、定まることも、妄念を滅することも叶いません。もし無明がなければ、意根は攀縁せず執着せず、法塵を生み出さないため、意識は弁別する必要がなく、心を定めるのは容易です。
定中に見る一切の人事物もまた意根の攀縁によって生み出されたものであり、これも虚妄です。これらの人事物に執着しなければ、それらの境界は次第に消滅し、定は深まります。世尊がかつて説かれた「凡ゆる相は皆是れ虚妄なり」という言葉を常に心に留め、絶えず自らを戒めれば、攀縁を減らし無明が薄れ、禅定を修めることが容易になるでしょう。
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